可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

なぜお客さんは一斉に帰ってしまうのか?

 夏に旅行した時に、喫茶店で働く後輩の女の子から託された課題だ。

「なぜ一斉にお客さんは帰ってしまうのでしょうか? すっごく混んでいたのに、誰かが帰りはじめると、次々と帰ってしまって、お客さんが誰もいなくなるんです。いつものエッセイで考えてみてください」
 私はお題をもらったことに感謝し、そしてお安い御用ですと引き受けたのだった。しかし、時間を見つけては考えてみるのだが、一向に納得のいく答えにたどり着かないのだ。このまま年を越してしまうのではないか。私は焦った。そして、答えは「わかりません」だったと書いてしまおうかと考えたことも一度ならずあった。
 ところが、ふと何かの拍子に気づいたのだった。店員さんが不思議に思いながら次々と帰っていくお客さんたちをなす術もなく見送るかたわらで、私もまたどちらかと言えば、帰りゆくお客さんたちを帰らずに眺めている人間だったのだ。だから、帰ってしまう人の気持ちがわからなかったのである。このことに気づいたのは、初台にあるfuzkueというお店で本を読んでいた時だった。どうして気づいたかというと、ここのお客さんは次々と帰ってしまわなかったからである。それはなぜなのか? このお店は、持続的な会話と学生さんのテスト勉強はお断りである一方で、どれだけ長居してもいいし、長居したからといって気を遣って食べものを頼んだりしなくてよく、くつろいで心ゆくまで本を読んでほしいというポリシーが掲げられている。そして、この店主の阿久津さんが書かれているように、そこにはポリシーに賛同した人だけがいて、ゆるい共犯関係(http://fuzkue.com/entries/36)を結んでいるのだ。だからこそ、そこの空気を作ることに自分も関わっていることに自覚的だ。まわりが帰ってしまっても、自分がそこに居たい限りは、みなそこにいることになる。
 同様に、喫茶店の雰囲気は、お店の人やお客さんたちが醸成しているもので、いつでもそこにあるものではない。ところが、お客さんはそのことを忘れているような気がするのだ(もちろんそれでかまわないのだが)。そして、1人帰り、2人帰っていくと、永久機関のように思われたその世界が崩壊しはじめたことを感じ取り、人は我先になるべくならその終末を見ずに帰ろうとするのではないか。

 もちろん自信はないのである。だが、もうしばらくそこに留まっていれば、また後からお客さんが入ってくる。そして後から来た人たちが、まるでずっと前から、何日も何年も前から変わることなくそのゆったりとした世界がつづいていると感じるのだ。そこに何か意味を見出しているわけではない。ただそれから私は本を閉じゆっくりと帰るのである。

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