可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

スランプに陥る、本屋に行く

 10月にいくつか満を持して書いた回があり、私としてもかなり納得のいくものに仕上がった。過去に見聞した意表を突く刺激的な事件について私は書いたのだった。ところが、困ったことに、それらを書き上げて以来、日々の生活になんでもない可笑しなことをうまく見つけられなくなってしまったのだ。

 気づいたときには、随分と長い間可笑しなことを見つけられずにいた。もちろん、可笑しなことに出会わなくても、普通なら特段困りはしないだろうが、毎週1つずつ可笑しなことを書いている者にとっては事態は深刻なのである。私は焦った。いったいこれからどうしたらいいのだ。これまで可笑しなことをみつけることにそれほど苦労した記憶もなかったので、この状況に自分でも驚いた。私の問題なのか、それとも世の中から可笑しなものが消えてしまったのか。
 ところが、数日前それもただ暗示にかかっているのだと気づいたのだ。その1週間に起こったこと、見かけたことを順に思い出していくと、私はやはり可笑しなことに出会っていたのである。
 私は毎日のように本屋に行く。引越した駅の前には夜遅くまで開いている本屋があり重宝している。その日、店に入ると、レジのところで店員さんがカレンダーを広げて、年配の女性客に、謝っていた。
「うーん、これ現品だけなんですよ。申し訳ありません。」
「傷がなければね、これほんとにいい柄だと思ったんだけど」
「いろんなカレンダーを束で仕入れているので、個別には手に入らないんですよ。」
「そうなのぉ。プレゼントにいいなと思ったんだけど、汚れてるとね。」
「すみません」
「また、仕入れたりは、されません?」
「売り切れたらまた束で仕入れるかもしれないですけど、これと同じのが入ってるかどうか」
 とにかくその女性はその気に入ったカレンダーに諦めがつかずにいるようだった。その脇を通り、文庫の本棚に行くと、「今年これが売れています」というポップとともに平積みされている本が目に入った。棚では「福島県出身作家フェア」なるものが開催されており、文庫の棚に背ではなく、面出しと言って表紙を見せるように本を立てかけてあった。そして、その本が棚から落ちないように敷いてあるブックエンドには
「読みつがれるロングセラー ==光文社文庫==」
と出版社の広告が入っていたのだった。そして私はうっかりその本を手に取ったのだ。光文社のロングセラーとはいったいなんだろうかと考えながら本を見ると、それは予想に反して新潮文庫の本だった。私の可笑しな気持ちが途端に盛り上がってきた。私はまるで宝物でも引き当てたように嬉しくなり、隣に並んだ「光文社文庫」の読みつがれるロングセラーを次々と手にとると、今度は文春文庫である。もう一冊手に取ると、再び新潮文庫だ。
 私は考えた。光文社の営業の人は平気なのだろうか。
「あら後藤さん、ごめんなさいね。いつもほかの文庫を立てかけさせてもらって」と書店員さんが言うと、
「いえいえ、いいんですよ。うちそんなにロングセラーとかないですから」とニコニコ笑っている。いや、ロングセラーがないわけではない。ただ、後藤さん(仮)はほんとうにやさしくて、人当たりがいいのが売りなのだ。
 その隣には、今度はただぶっきらぼうに「集英社文庫」と書かれたブックエンドで面出しされた文庫が並んでおり、今度はそちらを順に見ていくと、それらはみなちゃんとした集英社文庫の本なのであった。少し残念な気持ちになりながらも、
「うちのブックエンドには、ぜひうちの文庫を」
と熱弁する集英社の人を想像せずにはいられなかった。
 こうして目の前で見かけたことを、思いのままによく見てみると、可笑しなことはやはり街に満ちているものなのだった。