可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

煮込みハンバーグをめぐってわかりあえない

  そこはL字型のカウンターに六つの席が並ぶだけの狭い定食屋だ。カウンターの中では細身で短く髪を切りそろえたおやっさんとチンピラ風の二人の助手が働いていた。キッチンの奥の方にあるコンロとフライヤーの前でおやっさんがせっせと料理を作る間に、手前では助手の男たちが飯をよそい、味噌汁を注ぐ。食器を洗い、会計をする。納豆や冷や奴といった簡単なサイドメニューを客に出したりしている。

 助手の二人は兄弟なのか、ふたりとも一重まぶたの細い目をしていて、髪はポマードによって固められオールバックだ。そして、揃いの白い割烹着は今にもはだけそうなくらいにぴっちりだ。毎晩、大勢の客がやってきて、壁に張り出されたメニューの短冊からオーダーし、出されたものを黙々と頬張り、そしてさっと会計をして出ていく。

 一見、なんの変哲もないこの狭い定食屋のキッチンの中央に、ある日突然家庭用炊飯ジャーが置かれた。これは可笑しなことになったぞと私は思った。何しろ「家庭用」である。家に帰ってチンピラが居たらビックリするように、定食屋に家庭用炊飯ジャーは場違いである。そもそも、飯は隅に置かれた巨大な業務用炊飯器で炊かれているのだ。これはマズいと私は思った。

 ある日の夜、三十代半ばのくたびれたサラリーマンがカウンターに座り、壁に貼られた短冊のメニューを見て言うのだ。

「煮込みハンバーグ、下さい」

当然のことながら、ここに大きな落とし穴があろうとは誰も思っていない。

「はい」と言ってチンピラ風の男はコップを客の前に置き、奥のフライヤーの前でせわしなく働くおやっさんに大きな声で言う。

「ハンバーグ、ワンです」

「へーい、ハンバーグ、ワン。ありがとうございまぁーす」とおやっさんはフライパンを揺すりながら大きな声で叫ぶ。

 飯を頬張っていた私は、その瞬間、サラリーマンが不安げな表情をしたのを見逃さなかった。そうだ、彼が頼んだのはふつうのハンバーグではない、煮込みハンバーグだ。店内は炒め物のジュージューという音や食器を洗う音で満たされ、発した声はいとも簡単にかき消されるのだ。声が小さかったから、ひょっとしてうまく伝わらなかったのではないかと彼は考えたのかもしれない。

 炒め物があり、揚げ物があり、焼き魚もある。さらに自家製のポテトサラダなんかも出しているこの定食屋に「ふつう」のハンバーグだってあるだろうと思うのは当然かもしれない。しかし、そもそもこの店にはハンバーグはなかったのだ。そして、この定食屋のメニューに煮込みハンバーグが加えられるようになったのはごくごく最近になってからのことだった。そんなことを知らないサラリーマンが不安に思うのも無理はない。

「あのー」とサラリーマンは不安げに声を出す。「ハンバーグじゃなくて、煮込みハンバーグを。。。」

 助手は一瞥しただけで「はい」と表情一つ変えずに言い、そしておやっさんの方に向かってもう一度コールする。

「ハンバーグ、ワンです」

 もちろん、おやっさんは奥で

「へーい、ハンバーグ、ワン、ありがとうございまぁす」と繰り返すのだった。

 沈黙が店内を覆った。ジュージューという炒め物の音と食器を洗う音だけがする。そして、家庭用炊飯ジャーがただキッチンの中央に鎮座している。

 恐らくこの無言の対応で彼は「この場所のハンバーグはすべて煮込みハンバーグである」という命題を理解しただろう。いや、本当に理解しただろうか。もちろん頭ではそうだったかもしれない。しかし、本当に彼がその時に理解したのは、「もしここで煮込みハンバーグ以外の如何なるものが出てきたとしても、自分にはどうすることもできないし、闘おうとしたところで太刀打ちできないだろう」という無力感であったのではないだろうか。もはや、おろしハンバーグが来ようとも、煮込みうどんが来ようともどうしようもない。

 その時、彼は小学生の頃に母が「今日の夕飯何が良い?」と言い、「ハンバーグ!」と言ったのに、近所の魚屋で新鮮な秋刀魚が入ったからと秋刀魚の塩焼きを出したときに感じたのとおなじ無力を感じたかもしれない。母が「だって秋は秋刀魚よ」とか何とか言って、しつこく旬の秋刀魚の良さを彼に説明すればするほど、ただ彼の無力感は増すのだった。

 いま、私は思う。あの時、チンピラ風の男は一言教えてやればよかったのだ、「お客さん、うちではね、煮込みハンバーグのことをハンバーグって呼んでるんですよ。そのままだと長いから縮めて」と。それで彼はきっと救われたはずなのだ。でも、その一言は掛けられない。そういう逸脱は許されない。なぜなら、チンピラ風の男はそれをしないことで何かを守っているからだ。その守っているものは何なのだ。ポマードか何かか。

 サラリーマンもまた一言尋ねれば簡単に解決できるにもかかわらず、やはりそうしないことによって、何かを必死に守っているのだ。それは彼にとってのポマードに代わる何かだろうか。

 それによって守られていたものが何なのか結局のところよくわからない。今なら「空気」とかいう言葉で片づけられてしまうようなもののことなのかもしれない。まあ、呼び方はどうでもいい。ただ、ここで注意しなくてはならないのは、何だかよくわからぬものの方が具体的なものよりも、想像に反して守りが強固であるという事実である。

 というのもこうだ。具体的なもの、それはたとえば妻や子供、家計や友達との約束、あるいは年初に掲げた目標といったものかもしれない。必死に何かを守ろうとする。大事にしなくてはいけない。あいつの頼みは断れない。私が守ってやらなくては。ここであきらめたらメンツに係わる。しかし、そうした具体的な物事を守ろうとする意志はある日突然吹っ切れてしまうのだ。

「もうどうとでもなれ」とか、「俺って一体何を必死にやっていたんだろう」とか、「バッカみたい」といった思いが突然心の中に芽生え、そしてそれまで必死に守られてきたものごとは一瞬にして見放されてしまったりする。

ところが、何だかよくわからないものの守りは強固だ。よくわからないものは吹っ切れない。何しろ守っている当の本人にも何を守っているのだかわからないからだ。何かを守っているという自覚すらない。止めようにも何を止めればいいのかわからない。それはたとえば、知らず知らずのうちに、句読点を「、」ではなく「,」にしてみたり、店に貼り出すメニューの「○○あります」の「ます」の字を□に斜線を入れて表したり、ケーキを最後まで倒さずにバランスを保って食べようとしたり、風呂で体を洗うときは必ず左腕からとかいったことだ。外面的なそれらを無意識にやり続けることによって、私たちは背後にある総体としての何かよくわからないものを絶えず守っているのだ。

 チンピラもサラリーマンも、煮込みハンバーグをめぐって、何かよくわからぬものを守り抜き、もちろん用は足りたとはしても、ちょっとした一言を伝えるタイミングを失い、そして決して互いにわかりあうことがなかった。そして、十年以上の時を経て気づいてしまった。あの場でおなじカウンターに座って事態を傍観していた私もまたその何かを守っていた一人だったのではないか。お互いが理解しあうということをさしおいて、一体私たちは自覚することなしにどれだけの何だかわけのわからないものを守っているのだろう。

 それもこれもやはりキッチンの中央に突然置かれるようになった家庭用炊飯ジャーの影響と言うよりほかにないのである。しばらくすると、チンピラらは無言で大きな茶碗に盛ったご飯と、椀に注いだしじみの味噌汁をサラリーマンの前に置いた。おやっさんは丸くて大きい白い皿の上に千切りのキャベツと目玉焼きをのせ、例の家庭用炊飯ジャーの前に仁王立ちするのだった。

 おやっさんが家庭用炊飯ジャーのボタンを押すと、パカッと炊飯ジャーのふたが開く。カウンター越しに炊飯ジャーの中になにやら茶色い物体が見える。

 煮込みハンバーグだ。

 おやっさんはお玉で煮込みハンバーグを掬い、皿に盛る。こうしてめでたく目の前に出された煮込みハンバーグの皿にサラリーマンは食らいつく。チンピラは別の客に飯を盛ったり、皿をシンクの中で洗っている。みな沈黙を保ったままだ。やがてサラリーマンは煮込みハンバーグで腹を満たし、会計を済ませて店を出ていく。みな何かをしっかりと守ったまま、煮込みハンバーグをめぐってわかりあえぬままに。