可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

名前「フリオ」にまつわる不思議

 フリオ・イグレシアスというスペイン人歌手を知っているだろうか。では、フリオ・コルタサルというラテン・アメリカ作家は?いや、彼らを紹介することが目的ではない。ここで考えたいのは、彼らに共通している、この「フリオ」という名前だ。ちょっと日本人の名前のように思えなくもない。

 これまで深く考えることなく過ごしてきたが、先日あることを知った。スペイン語ではアルファベットの"j"はハ行の音になる。フリオはJulioであり、それは英語のJuly、つまり7月のことなのだ。当然そこから私たちが推測することは、彼らが7月生まれであろうということであるが、驚くべきことに、彼らは7月生まれではない。

  私は驚き、そしてその名前の由来をネットの海に求めた。フリオ・イグレシアスの父が七月生まれで、その名もフリオ・イグレシアス、父の名前をもらったという訳なのだ。よりにもよって、そこをもらわなくてもいいのではないかという気がしてくるし、そもそもそれは混乱の元ではないか。フリオ・コルタサルの方はどうしてそうなのかはわからなかった。

ここで私は村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」という小説で、主人公の家の裏路地を抜けたところに住んでいる女子高生 笠原メイのことを思い出した。高校を休学中の彼女と失業中の「僕」の間で次のような会話が交わされる。

 

 「それで君の名前は?」と僕は訊いてみた。

 「笠原メイ」と彼女は言った。「五月のメイ」

 「五月に生まれたの?」

 「当たり前でしょう。六月に生まれてメイなんて名前つけられたらややっこしくて仕方ないじゃない」

 「それはそうだ」と僕は言った。

  (『ねじまき鳥クロニクル 第一部泥棒かささぎ編』)

 

 そのややっこしい状況に置かれているのがフリオ・イグレシアスであり、フリオ・コルタサルなのだ。この小説をフリオ・イグレシアスが読んだら、どんな顔をするだろうか。まあ、笑っちゃうかもしれないし、ぜんぜん気付かずに読みとばしてしまうかもしれない。こういうことって、意外と本人は深刻ではないものなのだ。

 でも、私はなぜだか不安な気持ちになる。ことさらに私を不安な気持ちにさせているのは、私が名前には何か意味や思いが込められているとどこかで思い込んでいるからではないだろうか。意味や思いがあるということを否定する気は毛頭ない。でも、そうでないこともあっていいではないか。つまり、おかしいのは彼らではなく、おかしいと思う私の方にこそ問題があるのではないかという考え方の転換が求められているのだ。

 ここで場所を日本に移して考えてみよう。日本ではフリオ・イグレシアスのように、父の名前をそのまま受け継ぐということはほとんどない。それはひょっとするとアルファベット文化では名前が単語であることも多く、それ以上分割出来ないからかもしれないからかもしれない。日本では複数の漢字で名前にすることが多く、父母や祖父母から一文字もらうということは頻繁にある。ただし、漢数字はもらうものではない気がする。

 月を名前にしていると言われて、真っ先に思い出すのが、「渡る世間は鬼ばかり」の岡倉家である。三月生まれの長女が弥生、五月生まれの次女を五月などなど、枚挙に暇がない。むしろこれは命名規則にすらなっている。さらに今気付いたことだが、長女から四女まで生まれた月を名前にしているだけでなく、生まれた順番も月の順番なのだ。もしここで、イグレシアス家的な行動に出てしまった場合を考えると、誰がいつ生まれたのか訳が分からなくなってしまう。誰かがわけがわからなくなって間違い始める。すると、

「五月は七月生まれで、弥生が五月生まれなんです」

「違うわよ、弥生は"ほんとうに"三月生まれよ」

などという会話で埋め尽くされることになり、

「そんなことはいいから、ラーメンの出前に行ってこい」

というような展開になりかねない。だから、もう生まれた月をそのまま捻りなしに名前にしているわけだが、そこに「名前が備忘録的役割を担っている」という事実に当たるわけだ。それで本当にいいのかという気がしてくるが、ここでも名前は意味や思いではなく、機能だ。子供がたくさんいた時代には、意味や思いなんてものではなくて、もっと基本的な忘れないための機能だったのかもしれない。

 もう一人、月が名前になっているので思い浮かべるのは、五月みどりだ。こちらは、芸名だからちょっと扱いが違うかもしれないが、苗字が月だ。そして、このあたりで薄々察する人もいると思うが、五月みどりも五月生まれではない。もはや、そんなくらいでは驚きもしなくなってくる。

 じゃあ、何が五月なのか? それはデビューだ。デビューが五月、だから五月みどり。夫がこの味がいいねとサラダを口にして言って、サラダ記念日になるのと同じ仕掛けだ。何の不思議もない。そして、五月みどりには妹がいる。その名が小松みどり。訳がわからない。何をもらっているのだ。

 富山出身で十二月生まれと三月生まれの漫画家コンビがフニオ・フリオという名前で、少年漫画を書いたって、もはや驚きもしない。

 一方、思いを最大限込めた最たるものは、ここにきて話題に挙がることの多い、いわゆるキラキラネームである。思いを込めすぎて、決して常人には読めない名前だ。キラキラネームを付けようとする人は次の事実を考えてみてはどうか。それは思いを込めたのに読めない名前よりも、誰でも読めるがなぜなのか訳のわからない名前の方が破壊力が高いという事実だ。もちろん、名前は破壊力ではない。しかし、破壊力こそがものを言う世界もあると思うのだ。一つは笑いだ。笑いは緊張とその破壊が組になって生み出される。現に、五月みどり小松みどり姉妹の名前を知って、私は笑った。失礼ながら大笑いした。「なんでやねん」と突っ込みすらした。

 まさに現実は小説より奇なりである。世の中のばかばかしいことはほとんど見過ごされ、価値を見いだされない。けれど、このばかばかしいことを考え、そこに何かしらの可笑しさを見い出す時、ここにはほんとうに価値がある。意味はなくても、何かに気付いてしまう過程には、誰にも奪うことの出来ない価値がある。これからも一つずつ丁寧に可笑しさを見つけていきたいのだ。