可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

普通って何なのか?

 テレビで高校の応援団についてのドキュメンタリー番組が放送されていた。私はこの応援団というのが結構好きで、この番組も食い入るように観たのだが、一つ気になったことがあった。それは夏合宿の夕食を映した場面でのことだった。指導役として合宿に参加していた中年のOBの一人がご飯のお代わりを現役女子高校生部員に頼んだ。部員は巨大な炊飯器から茶碗にご飯をよそい「失礼します」と言ってOBの前に茶碗を丁寧に置いた。するとそのOBは苦笑しながら、

「普通によそってくれればいいんだよ」と言った。笑ってはいるが、目は怒っている。さすがは元応援団で、かなりの威圧感があった。

 言われた方の高校生部員はなぜ注意されたのか理解出来ずに困ったという顔をして、

「えっと、これ普通ですけれど」とつぶやいた。

 映像はその瞬間、茶碗の中味に切り替わった。茶碗の底の方に少しだけご飯が入っていた。これは確かに少ない。たぶんこの番組を観ていた大勢の人が同じことを思っただろう。そして、そのOBは、他のOBたちに

「最近の子どもってあれが普通の量なのか」と言って顔を見合わせるのだった。

 私はここで反省も含めて考え込んでしまった。それぞれの人、それぞれの家族によって普通という基準は違うものだ。だから、人にものを頼む時に、普通でと頼むことには本来は意味がない。それに、「量が少ない」のと「最近の子ども」は関係があるようで、実は関係ないのではないか。ここからわかることは、ただ万人共通の普通など実際には存在しないということである。

 あるいは私は応援団という異世界において、なお「普通」が求められているというところに可笑しさを感じ取ったのかもしれない。そもそも、普通を希求しながらも、普通とはなにかについて私たちは深く考えることはあまりないのではないか。普通を求める以上、普通とは何かを考えるのは責務だろう。いったい普通とは何なのだろうか、それ以来考えている。

 それで思い出したのが京急のことだ。羽田空港への足として利用したことのある人も大勢いるだろうが、本来は品川や横浜と、久里浜の方を結んでいる鉄道で、正式名称は京浜急行電鉄だ。東京や横浜に急行するという意味だろう。だとすれば、ここで考えなければならないのは、京浜急行の普通電車は急行なのではないか、ということである。

 何を馬鹿なことをという人がいるかもしれない。しかし、考えてみてほしい。大盛りの蕎麦を出すことをうたった蕎麦屋があったとして、例えば大森にあるその店の名前は地名と引っ掛けて「大盛り蕎麦」だったとする。そこへ入った客が普通に盛りそばを頼んだら、それは大盛りの蕎麦が出てくると考えるが自然だろう。

 もちろん京急の普通は各駅停車だ。それを知らないわけではない。ではどうして各駅停車が普通なのか。そのことを説明する自信が私にはない。いったい普通とは何なのか。考えるほど、わからなくなってくる。

 先日の帰省の折に気付いたのだが、いつの間にか実家の近くの駅には準急と特急しか停まらなくなっていた。そのあたりでは準急が各駅に停車するのだ。だから用は足りているのだが、普通電車は来ないのだ。普通電車が来ないとは、この駅は普通じゃないなと私は思った。いよいよ、普通の通じない社会が近づいている。そのことは心に留めておこうと考えている。