可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

仁王像のように

 会社帰りに買い物をしようと思って、とあるターミナル駅の改札口を出た。ずらっと並んだ自動改札機を抜けると、目の前に仁王立ちのような格好のおっさんが立ってはだかったいた。

 仁王立ちという表現は正しくない。最初、私はおっさんが改札の前で空気椅子をしていると思った。背が高く細身だが肩幅のがっしりとしたおっさんが鋭い視線を改札口の方に向けて空気椅子をしいている。改札を出入りする人の波を抜けると、それが目に突然飛び込んできた。事態が飲み込めず、私の目はそこに釘付けになった。いったい何が起こっているのだろうか。

 足を左右に大きく開き、腰をぐっと落としている。相撲の股割りのように見えなくもない。ただ、なぜか腰から上がかなり後ろに引っ込んでいるため、股割りよりは空気椅子に見えてしまうのだ。そして、彼は改札の中をじっと睨みつけている。私は恐怖を覚えた。

 普段、仁王立ちしている人を見ても私は怖いと思わない。自分自身が当事者でなければ、仁王は怖くないのだ。ところが、このおじさんには恐怖を感じた。それはこれから何がここで起こるのか、まったく予測不可能だったからだろう。何しろ仁王のようで仁王ではなく、空気椅子であり、股割りである。もしこの世に仁王というものが実際に現れるとしたら、このような形、つまり本物の仁王とはとても考えられない形で現れるのではないか。

 彼は微動だにしない。なぜこのようなポーズを取るに至ったのか? そして、その彼がここで待つものとは何者なのか? そういうふうに私に想像させてしまうのが、やはり股割りして待つ仁王である。相撲で言えば、待ったなしである。彼が東方とすれば、遅れて来る西方の者にもそれ相応の態度というものが求められるというものであろう。

 かと言ってじっとそこで私は待つわけにはいかず、その場を離れた。買い物を済ませて帰り際にそこを通ると、仁王立ちのおっさんはいなかった。かつて仁王であり、空気椅子であり、股割りをしていたあのおっさんはいなかった。果たして待ち人は来たのであろうか。それとも待ち人は来なかったのだろうか。私の脳裏にはさっきまでそこで股割りをしていたおっさんの姿が焼き付いている。彼は殺気立っていた。真剣に股割りをしていた。彼にとってまるでその日が千秋楽であるかのような、そんな形相だった。果たしてこれは何場所だったのだろうか。