可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

消費者物価指数をしらべる

 ニュースを見ていると、ここしばらく消費者物価指数が上がったなどと報じている。そして、場合によってはそれに一喜一憂することもある。少し前まではずっとマイナスで、デフレがつづいていると言われつづけ、それはイケナイことなのだとみな思っていた。しかし、ふと気づいたのだ。その上がったとか、下がったとか言われている消費者物価指数を私はどれだけ知っているのかと。

 私は反省した。定義もよく知らないようなものの増減を、そしてその影響を議論するようなことはまったく意味がない。そこで私は消費者物価指数とはなにものなのかしらべることにした。
 この統計は総務省統計局というところが行っており、「全国の世帯が購入する財及びサービスの価格変動を総合的に測定し,物価の変動を時系列的に測定するもの」であるらしい。正確な統計調査が可能になる以前の時代には、物価というものは空気感としてしか知覚することができなかったのだろう。そのことを思えば、毎月統計が出るたびに、一喜一憂するのではなく、ちゃんと統計が出ているね、と安堵すればいいのかもしれない。なにしろ、一喜一憂したところで、どうにもならないからだ。
 そして、私が興味を持ったのは、消費者物価指数に組み入れられている商品やサービスの変遷だ。昭和35年の主な追加品目には、「テレビ、冷蔵庫」などがあり、昭和55年には「電報代」が廃止され、昭和60年になると、「ビデオテープレコーダー」が登場する。まさに時代時代の生活の様子を物語るようなこの改廃品目一覧を私は食い入るように読んだのだ。いや、不便だった生活がどんどんと便利になっていったというだけではない。中にはおかしな改廃品目もあるのだ。たとえば、平成7年の追加品目には「私立短期大学授業料」というものが唐突にあらわれる。この時期に急に私立短期大学が身近な存在になったということでもあるまい。あるいは、平成2年を見ると廃止品目に「カリフラワー」とあり、追加品目に「ブロッコリー」がある。この似たようなものを入れたり出したりするのはどうしてなのか、私は気になって仕方がなかった。これを真面目に議論し、改廃品目リストに追加している人たちを想像せずにはいられない。
「きみねえ、カリフラワーはもう要らないんじゃないか」と課長が言う。
「いえ、ぜったいにカリフラワーは残してください」と言って若手の職員は咳払いした。「うちの母がカリフラワーが大好きなんですよ」
「公私混同は困るよ。これは大事な統計なんだから」若手職員を遮ると、ほかの職員の方に向き直って課長が言う。「というわけで、カリフラワーは廃止ということで」
「課長、じゃあその代わりに、ブロッコリーを入れてください!」
 そんなやりとりがあったのだろうか。いや、なかったかもしれない。けれど、そこになにがあったのか気になるのだった。そして、平成22年に追加される「演劇観覧料」とはいったいなんなのか。
 しんとしている午後のオフィスで、みな黙々と統計を計算していたときだった。
「最近ねえ、ちょっと演劇ってのにハマっててね」課長が唐突に言い出したのだった。課のものはみな、聞こえないような振りをしたのだが、こういうときの課長は決まって周りが応じるまで繰り返すのだ。
「演劇ってのは、なかなかいいもんだねぇ」などといつまでもつづけているのに呆れて、
「『演劇観覧料』追加でいいですか」と言ったのはベテラン職員の女性だった。
 いや、そんなことがあったのかどうか。どうして今さら演劇観覧料を品目に追加するのか、私にはやはり謎が多く、そんな謎の多い消費者物価指数の上がった、下がったという単純な事実だけに振り回されるのは、意味がないなと思い至るのだった。

タッチパネル

 タッチパネルが苦手だ。ほかにも回転ドアや、レバーなど苦手なものはいくつもあり、出来ることならそれらを避けて暮らしていきたい。そんなことを考えていた。タッチパネルが苦手になったのは、おそらく東京に出てきてすぐのころ、2000年ごろにJRの駅に導入されたタッチパネル式の券売機によるものだろう。画面に表示された金額のアイコンを押すのだがなかなか反応しないのである。それでいてなぜか少しズレた位置にそっと触れると反応する。そして反応するや否や、まるで私を警戒するように、コインの投入口がカチャンと音をたてて強く閉ざされるのだ。

 あれ以来、タッチパネルは苦手だ。iphoneにしたって、なにかと打ち間違いをしてしまうし、macbookのタッチパッドも複数の指を使った操作など、不器用な私にはとてもじゃないけれど完遂することはできない。会社の複合機のタッチパネルの操作も、ゆるやかな反応のために、連打すると遅れてつぎつぎと間違った操作が受け付けられてしまう。そして、ここへきて不意にタッチパネルと抜き差しならぬ状況に追い込まれてしまうのが、コンビニのレジだ。
「今夜はビールでも飲もうかな」
と気楽にカゴにビールとつまみを放り込み、そしてレジにたどり着いてはっと気づくのだ。
「年齢確認のボタンをタッチしてください」
私はしまった、こんなところにタッチパネルがあったとはと焦りだす。音声と同時に、画面には「年齢確認:20歳以上ですか? はい」のボタンが現れる。そして、店員は私にタッチパネルをタッチするように言うのだ。私はほとんど促されるままに「はい」のボタンを押す。
 私は思った。どうして「はい」しかないのだろうかと。「はい」だけなら、べつに押さなくてもいいのではないか。当然のことながら、「はい」があれば、「いいえ」もあるべきだろうし、場合によっては「わからない」があってもいいのではないだろうか。たとえば、よっぱらって酩酊していたとする。自動音声が「年齢確認ボタンをタッチしてください」と言うのだが、
「えぇ? なんだって?」
と酔っぱらいは繰り返す。自分が20歳なのかどうなのか、そもそもなにを訊かれているのかわからないというような状況もあるだろう。もちろん、そのように泥酔した客には酒を売らない方がいいという意見もありそうだが、この年齢確認とは、酒を飲むべきかを判断しているわけではない。
 もし飲むべきかの判断を下しているのならば、たとえば、
「健康診断の結果はよかった?」「はい、いいえ、どちらともいえない」
といったやり取りをすべきだろう。
 そんなことを考えながら、私はすこしずつコンビニのタッチパネルに慣れていったのだ。慣れてしまえば、動揺するほどのことでもない。私は店員がバーコードを読みはじめたときから、すでにタッチパネルの方をじっと見てタッチの用意をしている。ところが、画面にはなにも出てこないのだ。店員もなにも言わないのだ。しばらくすると合計金額を言い、そして袋詰めをはじめた。
 じっとタッチパネルを見ていた私は尋ねた。
「あの、年齢確認は?」私はカゴに入れたビールの缶を指差した。
 するとその店員さんは
「あっ、銀河高原ビールはいいんです〜」と言うのだった。
 意味がわからなかった。もしその場に「わからない」というボタンが表示されていたら、すかさずそのボタンを押しただろう。

いつもの店、いつものやつ

 いつもの店、いつものやつというのをやってみたい。

「じゃあ、いつもの店で」とか「いつものやつもらおうかな」などと言ってみたい。そう思うようになったのはいつごろだっただろうか。よく行く店がないわけじゃないし、行けばきまって頼むものだって結構あるんだ。しかし、だからと言ってそれがいつもの店のいつものやつなのだというわけではないとは、思いもよらなかった。いつもの店に通い、いつものやつを飽きもせずに頬張る大人を見て、小さいころの私は代わり映えのしないちょっとつまらないひとと思ったこともあった。それがある種の達成であるとは知らなかったからだ。
 いつもの店、いつものやつというのは、足しげく通い、自分がいつもの店だと思っているだけでは、実際のところ成り立たない。店のひとや、友人との間に合意や、共通認識がなくてはならないのだ。私はそのことに改めて気づき、ものごとの奥深さを思い知らされた。
 大学院時代に電車で行けば1時間ほどの場所にある数学科に夕方、専門家向けのセミナーをしばしば聴きにいっていた。セミナーが終わると主宰者の先生や助手の方が音頭を取り、スピーカーの研究者を交えて懇親会へといくこともあった。
「先生にはいつもの店があるんですよ」と大学院生だった先輩が言っていたのを思い出した。みんなそろって移動する。私はあとを付いていくだけだ。大学の構内から駅前に出ると、ビルの中に入っていった。そこは養老の滝だった。
「いつもここなんですか?」と私がこっそりと訊くと、みな黙ったままニコニコとした表情を浮かべて頷くのだった。どうやらセミナーの後は養老の滝というのが、みんなにとってのいつもの店ということらしい。
「実はね、一度だけよそにいったことがあるんですよ」と先輩が言った。
 話はこうだ。先生が
「いつもいつも同じところだと、つまらないね。たまには橋本まで出ましょうか?」
と言ったらしい。みんなはわくわくして付いていった。なにしろそんなことははじめてのことだったからだ。心を躍らせ電車に乗り、
「どんなお店だろうね」とか「先生の行きつけかな」
などと話していた。橋本に着くと、みな人ごみのなかを先生からはぐれまいと付いていった。先生は駅からまっすぐある店に向かっていった。そして、橋本駅の近くの養老の滝に入っていったのだった。いつもの店とはやはりある種の達成である。

ポール・オースター『リヴァイアサン』のいたずら

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 少し趣向を変え、今回はぜひ夏休みに手にとってほしい本を紹介したい。ポール・オースターの『リヴァイアサン』である。物語は、語り手である小説家ピーターが、全米中の自由の女神像をつぎつぎと爆破している最中に不注意から爆死してしまった男が実は親友のサックスであると新聞を読んで気づくところからはじまる。人懐っこくて誰とも親しくなることができ、戦争や暴力を徹底的に憎んでいた親友が、どうしてこれほど極端な行動に出、結果として非業の死を遂げることになってしまったのか。当の本人にも、彼にも本当のところはわからない。だからこそ、その事故に至るまでに、彼の人生という舞台に出たり入ったりしていった女性たちとの偶然の出来事を丁寧に拾い集め、語っていく。結果としての爆死は数々の奇妙な偶然につぐ偶然がもたらしたものだったと言えるのかもしれない。

 よく考えてみれば、ポール・オースターという作家ほど、度重なる偶然がひとの人生を予想もしない遠くへ運んでいくことをありありと描き、かりにそれが酷い結果だったとしても、そのことをなるだけ好意的に受け入れようとする物語を書く人はいない。『リヴァイアサン』においても、ピーターとサックスの出会いはやはり度重なる偶然がもたらしたものだった。ふたりはニューヨークに大雪が降ったある夜、もはや誰も客は来ないだろうと思いつつも、なんとかして朗読会の会場にやってきたことで出会い交遊を深めることなった。そして、ピーターはサックスについて、事件について語ることを託されたと強く感じることになる。
 私はこの小説に強い感銘を受けたが、この『リヴァイアサン』にはもう少し違う意味で思い入れがある。それは数年前のことだ。私は吉祥寺のジュンク堂書店にいた。少しまえに『リヴァイアサン』を読み終えていた私は、たまたまペーパーバック版の”Liviathan”を棚から手に取ったのだった。そして、表紙から数ページをめくるうち、何か奇妙に感じたのだった。ページの隅をよく見てみると、そこには、
 “Pick Up”
と書かれていた。そして、そのページに印刷されているものは”Liviathan”ではないようだった。私はこう考えた。Penguin Booksの広告かなにかで、ペーパーバックの冒頭数ページを別の小説の広告として掲載するキャンペーンなのではないか。なにしろ、”Pick Up”と題されたページである。
 私はつぎつぎとページをめくっていった。そして、16ページまでたどり着くと、そこから唐突に、ほんとうの”Liviathan”が途中からはじまっていたのだ。冒頭の16ページでなにかおすすめの小説をピックアップしているのではなく、”Pick Up”というタイトルの小説が紛れ込んでいたことに気づいた。私は印刷機や製本装置が並ぶ印刷所の風景を思い浮かべた。これをたんなる製本のプロセスでの間違いと考えることもできただろう。しかし、”Pick Up”なんていう名前はあまりにうまく出来すぎである。私はただのミスであるよりも、なにかしらのいたずらであったと信じたいと思った。そこに生身の意思をもった人間がきっと介在したのだ。それを私は偶然にも手にしているのだ。私は心を掴まれた。梶井基次郎の『檸檬』さながらに、私もやはりその”Pick Up”のいたずらという爆弾にやられたことになる。それ以来、私にとって『リヴァイアサン』はいっそう思い入れ深い一冊となった。
 小説の中の偶然は、決して小説の中にとどまらない。現実世界にその偶然は手をしっかりと伸ばし広がっている。少なくとも、そう感じさせる力がこの小説にはある。ぜひ夏休みに手に取って読んでいただきたい。そして、もっと偶然を好意的に受け止めてみてほしい。 

シュラスコを食べる時に気をつけること

 会社の人たちとシュラスコを食べに表参道へ行った。テーブルに着くと、剣のようなものにロース、ランプなどさまざまな部位の肉を塊のまま突き刺し、火で焼いたものをつぎつぎに店員が持って回ってくる。そして目の前で肉切りナイフで焼き色の付いた表面をすっと削ぎ、皿に入れてくれるのだ。また、サラダバーが充実しており、とにかくサラダがうまい。いろんな生野菜、ピクルス、蜜漬けなどが所狭しと並べられており、これはサラダなのか?という感慨を覚えるほどである。それだけでも食べにいく価値があると思うのだが、ここで考えたいのは、やはり肉の食べ放題の方だ。
 実にさまざまな部位をもって店員さんが回ってくる。最初は勢いよくあれこれ皿に入れてもらうのだが、あっというまに腹が膨れはじめる。「もうお腹いっぱい」ということになれば、テーブルに置かれたコインのようなものを裏返すと、それが「要りません」という意味になり、どの部位を持った店員も肉を持ってこなくなる。それが基本となるルールだ。ところが、本当に腹がいっぱいで何も入らないという状況にはほど遠い、ものによってはまだ食べられる、というタイミングがあるそんな時には気をつけておきたいことがある。
 店員がやってくる。
「ハツです。いかがでしょうか?」
よりによってハツだ。一瞬みんなが迷う。結構お腹いっぱいだしな、一度は食べたしな、どうしようかな。そして、
「あー、結構です」と申し訳なさそうに断るのだ。
そんな店員が去ると間髪を入れず、ロース肉を刺した剣を持った店員が笑顔でやってくる。
「ロースです。」
われわれは一瞬躊躇うものの、
「はい。おねがいしまーす」と苦笑いで答えるのだ。
しばらくすると、再び彼がやってくる。そう、ハツ係の彼だ。
「ハツです。いかがでしょうか?」
今度はみな迷わずに、若干怪訝そうな顔をして言う。
「ハツは要りません」
肩を落として彼はほかのテーブルへと歩いていくのだ。
 ハツには興味がなかった私だが、後ろ姿を見て、ハツ係の彼のことが気になったのだ。よく考えてほしい。ロース係の彼のように、
「いかがですか?」
と言うと、みなが待っていましたと笑顔で受け入れ、少々お腹がいっぱいでも、
「おねがいしまーす!」
と言ってくれるものをずっと給仕しつづけた場合と、
「うーん、どうしようかな、、要りません」
とか、はなから
「いらいない」
と怪訝そうな顔をされつづけた場合とで、その人の性格に影響が出ないはずがないと思うのだ。しかも、鶏ハツは必要なのだ。サーロインやロースという花形ばかりではつまらない。鶏ハツのような脇役が居てこその主役が引き立つというものだ。だから、私はまたシュラスコに行くことがあれば、ハツ係にこそ笑顔で接しようと思いを新たにしたのだった。
「わたし、シュラスコなんていかないしー」と思っている方はぜひ次のようなことを想像してほしい。職場から帰ってきたパートナーが、えらく消耗していたとして、
「どうしたの?」と聞いたとしても、なんだかよくわからない反応しか返ってこなかったとする。
 その時はきっとこうなのだ。会社で一日じゅうハツの給仕をさせられていたのだ。そして、彼/彼女は一日、社会的ハツ係の勤めをたった今終えたばかりなのだ。

プロの殺し屋

 ときどき極度の空腹に陥ると、ラーメンもチャーハンも餃子も食べたくなり、手近に見つけたラーメンのチェーン店に入る。用事があって出掛けた帰りで、随分と時間も遅いのに、店内は結構に賑わっている。蒸し暑い日だというのに、全身黒ずくめの男が二人並んで、無言でラーメンを啜っている。席に座ると、二十歳そこそこの女性店員さんが水の入ったグラスを運んでくる。私はすかさず、ラーメンとチャーハンと餃子のセットを注文するのだ。

 しばらくするとさっきの女性店員さんが次々と頼んだものを持ってきてくれる。大学生のアルバイトだろうか。重たいラーメンのどんぶりを両手に抱え、すごい働きっぷりである。それに、忙しく動き回っているのに、とても感じがいい。夜遅くにさっと入れば、そこそこうまいものが食べられる、そんな店があることはありがたいし、店員さんの応対が丁寧なら、なおのことよい。
 私は空腹を満たすべく、ラーメンのスープを飲み、チャーハンをかき込んでいたのだった。その時、なにか私は殺気を感じたのだ。ラーメンをすすってると、背後に殺気を感じた。私がふと後ろを振り返ると、そこに居たのは、さっきまで感じよく接客していたあの女性店員だった。彼女は気配を消し、カウンター席の足下を睨みつけながら、忍び足で進んでいたのである。

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思い込み

 1ヶ月ほど前に学芸大学駅の近くに引っ越しをした。増えたのは本くらいのものだろうと思っていたのだが、私の予想に反して、荷造りをしてみれば、この大きな本棚も買った、液晶テレビも買ったと思い当たり、改めてものが増えていることを実感させられた。私はたいしてモノを持っていないはずだ、というのはただの思い込みだったのである。
 引っ越し業者が到着してみると搬出はあっという間だ。ほとんど夜通し掛かって、本を詰め込んだ、私にはなんとか持ち上げられるくらいの段ボールを三つくらい積み重ねて軽々と運び出していく。作業員のボスが若手に、これの次はあれと指示を出しながら、私に尋ねた。
「ご勉強のご本ですか?」
 私は咄嗟に
「まあ、趣味の本がほとんどですよ」
というような受け答えをしながら、何かがかみ合っていないような気がしていた。「ご勉強」とはいったい何のことなのか。
 搬出が終わると急いで新居に向かい、今度は搬入を見守ることになる。次々と荷物が置かれていき、これまではまったく自分の部屋という実感が湧かなかった部屋が、本棚や机、カーペットが置かれてみると、たちまち自分の部屋だという感じがしてくる。そんなことをぼんやり考えながら、家具の位置などを指示していると、若い作業員の1人が私にこう言ったのだ。

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