可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

はじめての人間ドック

 先週、はじめて人間ドックを受けた。受付を済ませ検査着に着替える。検査フロアに降りると、小部屋に囲まれた広間に置かれた円形のソファーに案内された。病院とは言え、検査専用の棟には、病気を予感させる病院特有の雰囲気などまったくなく、何か非日常のアミューズメントパークのようである。

 営業マン風の男は会社の仲間で一緒に受診しているのだろうか、検査から待合いのソファーに戻ってくると、楽しそうに検査のことを仲間に話している。また、ある女性はたまたま昔一緒に働いていた別の女性と再会し、

「あら、こんなところで会うなんて、元気だったー?」などと話している。これが外の世界ならば、書き留めるほどのことでもないのだが、やはりここは人間ドック専門病院であり、これがある種の事件のように映るから不思議なものである。

  とにかく、私たちも看護婦さんたちも沢山ある検査項目を次々にこなしていく。肺活量の検査では、口に検査器をくわえると、看護婦さんに「くわえすぎです」と注意されてしまったのだが、いざ検査が始まると何事もなかったのように、

「吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー、、、」という指示が淡々と続いた。そして、どこまでも続くかと思われたが、頃合いを見つけると突然大きな声で、

「はい、思い切り吸ってー。はい、吐くー。はい、もっともっともっともっとー」と励まされたかと思ったら、

「はい、終わりでーす」とあっさり終わる。

 ソファーで待つ、検査する、ソファーで待つのくり返しで、とにかくこのテキパキとした扱いのくり返しが少しずつ心地よくなっていくのだ。

 問題は腹部エコー検査だった。私がベッドに横になり、腹をまくり上げると、検査技師は温かいというよりは少し熱いジェルを腹の真ん中に垂らした。

 バーコードリーダーのような形状の端子を腹に当て、腹の表面をなぞっていく。ただなぞるだけではない。技師は

「はい、大きく吸って。はい、止めて。はい、楽にして」などと指示を出すのである。楽にするとは?と思っていると間髪を入れず、

「はい、大きく吸って」とまたくりかえし始めるのだ。これが何十回と繰り返されるうちに、私はこのリズムを体得した。「次は大きく吸ってだな」とか、「次は、はい止めてだな」というふうに予測もしており、ただ言われる通りに息を操ることができるようになっていた。そして、このリズムに合わせて呼吸をするのが徐々に気持ちよくも感じていたのだ。

 十分に腹の中央を検査すると彼は

「次は、脇腹に移りますよ」と言った。そして、バーコードリーダーのような端子を脇腹に当てようとしたその時、技師は優しい声で

「ちょっと冷んやりしますねぇ」と言った。

 それがなぜか可笑しかった。「ちょっと冷んやりしますよ」とか「冷たいですけど、我慢してくださいね」とかならわかるのだ。何しろ、まだ私の腹に触れる前なのである。「冷んやりしますねぇ」とはいったいどういうことなのだろうか。

 とは言え、それほど大したことではない。端子が脇腹に触れる。確かに冷んやりする。脇腹をその端子がなぞり、離れる。また触れ、なぞる。ところが、その繰り返しと合わせるように、気づくと私は頭の中で「冷んやりしますねぇ」を反芻しているのだ。

 触れる、「冷んやりしますねぇ」を思い出す、なぞる、離れる。

 くり返せばくり返すほどに、なんだか可笑しくて仕方がなくなってくる。我慢しなくてはと思うと、尚のこと辛抱が堪えるのである。徐々に堪えられなくなってきたのだが、突然笑い出すのも可笑しい。こんなところで笑い出したら可笑しな患者じゃないか。

 はたと思いついた。脇腹をなぞられて、くすぐったいというていでいればいいのである。私は目を瞑り口をぐっと閉じて体に力を入れて、くすぐったい振りをした。

 実際あれは「冷んやりしますねぇ」というのが可笑しかったのだろうか。それとも、ただ脇腹がくすぐったかったのか。どっちが正しいのかよく考えると分からなくなってくる。揺れる吊り橋を渡る時にドキドキすると、向こうに見えている人にドキドキしていると脳が勘違いして相手を好きになる吊り橋理論というのがあるが、それと同じかもしれない。

 エコー検査を済ませ、再びソファーに座っていると、目の前の検査室のドアが開き、おじさんが呼ばれた。呼ばれたおじさんはもうドアに入る前から、すでに検査着をまくりあげそうになっていて、それがまた可笑しかったのだが、技師は慣れたもので、まったく動じることもなく、「はい、どうぞー」

と部屋の中に案内していくのである。こうやってくり返しは続いていく。今もまた、「冷んやりしますねぇ」がくり返されているのだろうか。