可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

論理学の講義における「岡田」について

「岡田が来ると、パーティーがつまらなくなる」

 スーツを着た講師は大教室で息を切らしながらプリントを配り終えると、マイクを持ち、すごい音を立てて板書をしながらこう言うのだった。それは学生のころに履修した論理学の講義でのことだ。彼はさらにその左側にこう書く。
「岡田は来る」
 そして、前を向き、眼鏡に掛かった前髪を払いながら
「よって、パーティーがつまらなくなる」
そう言うと、また黒板に向かい、チョークを砕かんばかりの強さで書きなぐる。
「パーティーがつまらなくなる」
 一度だけではない。この講義は終始この調子で進んでいくのだ。
「岡田が来ると、パーティーがつまらなくなる」
と彼は何度も繰り返し言う。そして、その繰り返し「つまらなくなる」と言っている講師こそ、その岡田だということに気づき私は驚かずにはいられない。もはや論理学どころの騒ぎではないのである。今、思い返してみても、この講義で覚えていることは、
「岡田が来ると、パーティーがつまらなくなる」
ということだけなのだ。

  授業が進んでいっても、やはりこの調子である。三段論法も、背理法もやはりこれだ。

「岡田が来ると、小林が来ない」
「小林が来ないと、パーティーがつまらなくなる」
「よって、岡田が来ると、パーティーがつまらなくなる」
 当時は、ただの冗談としてこれを聞いていた。あくまで命題の例であり、冗談にしているのは印象づけのためだと思っていた。しかし、果たしてほんとうにそうなのだろうか。何かを言うたびに、荒い鼻息がマイクを通して教室中に響いた。女子学生がクスクスと笑うと、先生が
「どうしたんですか? (ふぅ、ふぅ)」
と言い、また笑いが起こった。
 そもそも、「小林が来ない」と「つまらなくなってしまう」パーティーとは如何なるものなのか。それが例えば、「小林幸子ディナーショー」だというのなら、まだわからなくもない。ステージには巨大な衣装だけが置かれ、音楽に合わせてその衣装が電飾を点滅させながら開いたり閉じたり動いているのである。小林幸子を目当てに来た観客は「つまらない」と文句を言うに違いない。しかし、ここで考えているのはただのパーティーだ。パーティーのために、小林1人に頼り過ぎではないか。
 もちろん、小林ひとりに頼り切りのパーティーが一つくらいあってもかまわない。今、改めて思い返してみてむしろ見逃せないのは、岡田はなぜそこまで執拗に
「岡田が来ると、パーティーがつまらなくなる」
という命題を持ち出さねばならなかったのかということだし、しばしば持ち出される
「岡田は来る」
という命題だ。彼は足しげくパーティーに通い、そしていつもパーティーがつまらないと感じていたのかもしれない。だとしたら、つまらないにも関わらず、パーティーにやってきてしまう岡田というのは、実はかなりすごい奴なのではないかと思ったりもしたのだ。
 それで思い出したのが、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』である。ヴラジミールとエストラゴンのふたりは木の下でゴドーが来るのを待っている。夕方になって男の子が、
「今晩は来られないけれど、明日は必ず行く」
という言づてをしにやってくる。しかし、翌日もまたゴドーは来ないのだ。
 当初、ふたりはゴドーを心待ちにし、やってきたゴドーと話したいことややりたいことについて話し合っているというような状況を想像していたのだが、読み進めていくうち、どちらかといえば、彼らはゴドーを本当に待っているのか疑問を持たざるをえなかった。しばしば、彼らは待っていることすら忘れてどこかへ行ってしまおうとし、相手にとがめられる始末なのである。そして、ひょっとして自分がここにいるためにゴドーは来ないのではないかという考えを彼らはまったく持ち合わせていないのだ。
「ふたりが来ると、ゴドーは来ない」
 場合によっては、そうなのかもしれない。しかしそんなことには思いもよらない。そしてそれはまさしく岡田と小林の関係とそっくりなのである。そう思い返してみると、あの論理学の講義がたちどころに不条理劇のように思えてくるから不思議なものである。