あえて2回言う
ゴールデンウィーク中に、電車で本を読んでいたら、出張帰りという雰囲気のスーツ姿のおじさんと若い男が乗ってきて隣に座った。しばらくすると、おじさんは携帯電話の画面に息子の写真を表示させて、若い男に見せはじめた。
「これは小さい頃の写真だけどね」
「結構背が高いですね」
「まあ、この時は大きかったけど、すぐに止まっちゃって、今は下の子の方が大きいくらいなんだよ」
「僕も中学入ったらすぐに身長は伸びなくなりましたよ」
すると、唐突にこのおじさんが昔の話をしはじめるのだった。
「そうだよね。私が小学校に入った頃に、1人だけ大きい奴がいてさあ。背が高かったから、馬場って呼ばれてたんだよ〜」と言う。すると、若い男は、
「へぇ、そうなんですねぇ」
と受け流し、そして沈黙が出来た。
隣に座っていた私は、ひょっとして馬場がわからなかったのだろうかと思った。馬場と言えば「ジャイアント馬場」だよ。それにしても、ジャイアント馬場がなくなってから何年になるだろうか。クイズ番組の回答者として出ていたのは、まだバブルの時代だっただろうか。そんなことを考えていると、再びおじさんが口を開いた。
「いやぁ、そいつったらさぁ、背がほんとに高かったからねぇ」とここでひと呼吸おいて、相手の注意を引きつけ、さらに力強く言うのだ。
「馬場って呼ばれてたんだよ〜」
あえて2回言う。おじさんも意味が伝わらなかったと思ったのかもしれない。しかし、同じことを言ったって、伝わらないものは伝わらないのだ。それに、再び
「へぇ、そうなんですねぇ」
と彼が繰り返した時、私はさらっと流した彼もまた「ジャイアント馬場」を知らないわけではないと気付いたのだった。
何しろ「ジャイアント馬場」だ。いくら男が若いとはいえ、知らないわけがないじゃないか。それに、そんなことを言われて、どうしろと言うのだ。「へぇ」以外に何かあっただろうか。
たとえばこれが次のようなら話は別だ。
「いやぁ、そいつったらさぁ、背がほんとに高かったからねぇ、『鈴木』って呼ばれてたんだよ〜」
いったい「鈴木」とはだれなのか? そういうふうにして自然と疑問がわくではないか。あるいは、背が小さいのに「馬場」と呼ばれていたとか、背が高い奴が5人いたのに、彼だけが「馬場」と呼ばれていたとか、そういうことならば、受け流すわけにはいかないのである。
「どうして彼だけが馬場と呼ばれていたのですか?」
と若い男は自然に疑問を発しただろう。
しかし、おじさんは、そのような話をするわけではない。どうしても言いたかったのだろう。「へぇ」としか受け流すことの出来ないことを、あえて2回言ったのだ。そして言った本人は実に愉しそうなのだった。