可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

声に出して読む

 五月の連休明けのことだ。ブック・ディレクターの幅充孝さんらが主催された読書のフェスに参加しようと、上野公園の野外ステージに行った。それはまだ少し肌寒い日だった。6時間にわたり10名以上のゲストがめいめいに文章を朗読した。観客から飛び入りで参加した女性が村上春樹ノルウェイの森』の洋食屋でランチする件を感情いっぱいに読み上げると、その非現実的な会話に会場じゅうが笑い声で埋め尽くされた。宮沢章夫さんは『牛への道』のまえがきを朗読された。缶コーヒーを買おうとしてスポーツドリンクが出てくるその短い文章の間、皆笑いまくったし、私も息ができないほど笑いすぎて苦しかった。まるでしゃっくりをずっとしているようだった。

 それ以来、私は声に出して読むということに意識的である。なぜ私たちは声に出して読むのか。なぜ黙読ではいけないのか。相手に向かって朗読するならまだわかるのだが、一人であっても声に出すのにはどのような意味があるのだろうか。笑うということであれば、声に出して笑うのは生理現象のようなもので、スイッチが入ってしまえば、もはやどうしようもない。その結果として思いも寄らぬ形で笑いの連鎖が進行していく。一方で、声に出して読むというのは意識的なものである。意識的というのであれば、声に出そうが、出すまいが、結果はさほど変わらないような気がするが、どうもそうではないらしい。

 そこで思い出したのが齋藤孝氏の『声に出して読みたい日本語』だ。何年か前にこの本がベストセラーになった。今回気になって目次を見たのだが、いわゆる名作がずらっと並んでおり、正直その健全さが過ぎるのではないかという懸念を持った。「声に出して読む」ことの重要性を考えるとき、優等生的なものを読むというので本当にいいのだろうか。これは「何を読むべきか」の正解を求めた結果であるような気がしたのだ。
 そこで、ここは一つ視点を変え、こう考えたい。

 「何を読むかではなく、どこで読むかだ。」

 もちろんこう仮説してみたところで、何も変わりはしない。実践あるのみである。そこで机上にあったガルシア・マルケスの『百年の孤独』の冒頭を夏の氷屋の前で読んでみる。あるいは、皇居のランナーに向かって、アラン・シリトーの『長距離走者の孤独』を読んでみるか。いや、駄目だ。結局名作集みたいになってしまうではないか。本当は何でもいいのだと言いながら何か意味を込めそうになるのを避けられない。問題はどこで読むかだ。そこで、家のポストに投函されていた広告を適当に手にとり、読み上げる。ある時は部屋の隅に立ち、ある時は玄関から誰かを呼ぶように、あるいは風呂の湯船に浸かりながら、はたまた廊下で。

 こだわりの永住品質。その住まいが語るのは、ゆとりある上質
 家族のコミュニケーションもいっそう深まります。

 すると、私たちが日頃感じている以上に声の響き方が場所によって違うということに気づくだろう。ひょっとしたら読書に最適な場所というのが見つかるかもしれない。
 そして、ここで考えなくてはならないのは、人の文章を朗読すると、じきに喉が痛くなるという一見どうでもいい事実である。読み上げていくうちに、喉がちくちくとしたような気がしたのだ。ひょっとして風邪を引いたのだろうか。それは厄介だ。しかしこれは風邪ではない。というのも、自分の書いたこの地の文なら、どれだけ読み上げても喉は痛くないからだ。
 つまり読み上げた文章は体に合っていなかった。もう少し分かりやすく言えば、うまくリズムに乗せて読もうとすると、息継ぎをする場所がうまく見つからず、どうしても無理をしてしまうのだ。そして、とにかく喉が痛い。言葉と体は表裏一体であり、人の言葉は、その体のものである。
 あなたが発した言葉を最初に聞くのはあなたですから、汚い言葉を発するべきではありません、と自己啓発本なんかでよく言われるけれど、そもそもその声を発するのはあなたや私の喉で、とにかく喉が痛いのだ。やはり風邪なのだろうかともう一度自問する。けれど、恐ろしいことに喉も同じことを声に出していれば、すぐに慣れてしまうのである。したがって、どこで読むかも大事だが、やはり何を読むべきかが肝心であると結論づけることができる。喉の痛みという観点で、このことを論じた者を私は知らない。実験を経て得られた知見は強固である。
 そして、私ははたと心配になるのだ。『百年の孤独』を読み上げた私はこれからどうなるのか? 『長距離走者の孤独』を読み上げた私は? はたまた、マンションのチラシを読み上げた私はもはや、チラシを作った不動産業者の虜であり、気づかぬうちにマンションを買ってしまうのではないか。声に出して読むということの怖ろしさを感じざるを得ないのである。