可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

読み間違いが生むもの

 唐突だが、少し前に宮沢章夫著『東京大学「ノイズ文化論」講義』を読んだ。この本で取り扱っている内容が興味深く、ずいぶんと刺激を受けたのだが、今日の本題は別な話だ。『第8回 それを「ノイズだ」というなにものかがいる』の章だ。『4'33"』で知られるジョン・ケージについて氏はこう話す。

たしかケージは菌類の、とくにキノコの研究をしていたと思うんですけど、南方熊楠もまた菌類の研究をしていたんですよ。なにを唐突にって思われるかもしれないけれど、僕もやっぱりキノコが好きで(以下略)

  私はどう読み間違えたのか、この時木版画家の棟方志功を思い描いていた。瓶底メガネをかけ、版木にほとんど顔を擦り付け、一心不乱に彫刻刀を操る巨匠である。そんな棟方志功が彫刻刀をおき、山にわけいり、束の間の休息をとる。足下に棲むキノコを丁寧に手にとって愛でる。そんな姿を無意識に思い描いていた。写真で見る気難しそうな彼にも、お茶目なところがあるものだなと、少し温かい気持ちになるのだった。

 しかし、何か予感というのか、可笑しな気がしてもう一度よく読んでみたら、それは「棟方志功」ではなく、「南方熊楠」であった。私は自身の読み間違いのひどさに笑わずにはいられなかった。彼は日本の博物学者、生物学者、民俗学者であり、生物学では特に粘菌の研究で知られているらしい。だから、菌類の研究をしているのは当然である。
 これをただの読み間違いとやりすごすことも可能である。しかし、この間違いがなければ、棟方志功という気難しそうな巨匠にもそういう一面があるのではないか、という考えにはたどりつかなかっただろう。私たちは人に対してステレオタイプを持っており、そのステレオタイプからずれた情報、たとえば巨匠にだってごく自然にお茶目な一面もあるというようなことを意識せずに排除しがちである。こう考えてみると、必ずしも間違いというものが無意味なものではなく、有益なものとして考えることができるようになってくるのである。
 そして、今年一番驚いたのは次のような話だ。
 半年ほど前だろうか。職場の飲み会の案内メールを読み、
「へぇ、餃子屋さんかぁ」と思ったのだ。
 何か変だなと思わなかったわけではない。その飲み会は出産を控えて産休に入る同僚の壮行会的な飲み会だったのだが、そういうのを餃子屋でやるかということと、もう一つは店名に埋め込まれた「鳥」の字によるものだろう。私は鳥と餃子は相容れないものではないかと瞬間的に感じたのだ。餃子なら、ふつうは豚肉ではないのかと。
 それでも店名に「鳥」と書かれている以上、鳥の餃子なのだろう。私は少し考えを巡らし、普通は豚肉でやるところを、この店では特別に鶏肉でやっており、それがこの店の特色、自慢料理になっているのではないかと考えた。パリパリに焼いたきつね色の餃子を口に入れると、中からジューシーな肉汁がジュワっと出てくる。口の中がヤケドしそうだ。いや、少し口の中をヤケドしてみたいとさえ思った。
 本来なら、このあたりで何か違うんじゃないかと気づくべきだし、実際よくみればわかったかもしれない。しかし、その日は返信することなく、ただ頭の中に鶏肉の餃子が残った。
 数日後、幹事に催促されて返信をする際に、もう一度案内のメールを見て驚いた。

 会場: 鳥元 ミョーザ川崎店

 「餃子」ではなく「ミョーザ」だ。それは、店の入っている施設の名前なのだということに、この段になって気づいたのだ。施設の名前だから、出される料理とは恐らく関係がない。
 それにしてもミョーザとはいったい何者なのか? 私はいかにも餃子みたいじゃないかと思った。餃子をミョーザと言っても、そのまま通じそうなものじゃないか、などと考えながらもう一度案内を見てさらに驚いた。

 会場: 鳥元 ミューザ川崎

とある。ミョーザではないのだ。これには驚いたというよりも、呆れた。私の目はどうなっているのだろうか。そして、私はただ餃子が食べたいだけなのではないかという疑念にぶち当たるのだった。
 とてつもなくどうでもいい話だが、この話はとにかく文章にまとめなくてはという思いが、この数ヶ月、折に触れて浮かんでは消えた。この読み間違いは何なのだろう。読み間違いもなぜ「餃子」でなくてはならなかったのかということが気になった。「ミョウガ」では駄目だったのだろうか。私なりに出した結論は「私たちは見たいものしか見えないのではないか」というものだ。餃子が食べたいとき、そこに餃子が存在しなくても、餃子と書かれていなくても、私たちは眼前にいとも簡単に「餃子」を出現させてしまうのではないか。いや、気のせいだろう。