車内での通話はご遠慮ください
昼下がりに電車に乗ったら、隣に座っていた若い営業職らしき女性がタブレットを触りながら、携帯電話で話しつづけていた。
「はい、月々割は。。事務手数料は結構ですが、月々割はなんとも」
「ええ、はいっ、いえ、月々割は」
「ちょっと調べてから折り返してもよろしい、、えぇ月々割は…」
連呼される「月々割」に苦笑していて、ふっと遠い昔、友人のヤマムラから聞いた話を思いだしたのだった。
「携帯電話の車内での通話はご遠慮ください」
そんなアナウンスが始まったばかりのころの話だ。ヤマムラは仕事帰りの電車に揺られていた。そして、しばしば開くデッキへのドアの向こうからはカップルの口論する声が聴こえていたのだ。やがて、それはエスカレートしていった。
「なんや、お前。ふざけやがってぇ」と男が叫んだかと思うと、女をなぐった。
「やめて、やめて」と女が悲鳴を上げた。
しばらく静かになったかと思うと、また口論し、そして男は手を上げた。
誰かが呼びにいったのだろう。しばらくすると車掌がやってきて、二人の間に入った。しかし、男は手を止めないのである。
「俺らのことに入ってくんな。お前、関係ないやんけ」
そこへスーツ姿の中年の男が現れ、こう言ったのだ。
「止めなさい」
その落ち着きぶりに一瞬まわりは静かになった。ヤマムラも座っていた席から身を乗り出してデッキの方を覗いていた。いったいこの男は誰なのだ。
「お前、誰やねん。関係ないやんけ」
男はこの中年の男にもからみ、そして彼女の頬を打ちつづけた。すると、突然スーツ姿の男は言ったのだ。
「止めなさい。止めなさいと言ってるじゃないか。私は検事だ。緊急逮捕する」
そう言うと彼はポケットから手錠を出し、男にかけた。
ヤマムラは思った。「手錠? 逮捕?」
それでも男は叫びつづけた。彼女は「やめてよー」と言うが、手が塞がった男は今度は脚で女を蹴り、そして検事に吠えた。
「お前、誰やねん。はずせや。警察ちゃうやんけぇー」
たしかに警察じゃないのにどうして逮捕できるんだろう。そうヤマムラも考えていると、
「緊急逮捕は出来るんだ」と検事が言った。
「なんでやねん、放せやぁ、お前、警察ちゃうやんけぇ」と男は納得せずくり返し叫んだ。
検事が片手で男を押さえながら、携帯を取り出し、
「私はXXです。車内で緊急逮捕しましたので、引き渡しをお願いします」と電話で話しているときに、事件は起こった。男は突然こう言ったのである。
「「車内での通話はご遠慮ください」とちゃうんかー!」
ヤマムラは驚いた。そして少し笑った。なにしろ、この期に及んでも、男がちゃんと車内アナウンスの口調を真似て、フレーズを丁寧に言ったからだ。
検事は言った。「緊急の場合はいいんだ。ねぇ車掌さん?」
車掌は言った。「はい。緊急の場合は結構です」
男は言った。「なんでやん!」
そして電車は途中駅に緊急停車した。ドアが開くとそこにはすでに警官が待っていた。男は逮捕されることを自覚すると、観念して大人しくなり、彼女に向かって
「順子〜」
と泣き崩れた。彼女もまさか彼氏が逮捕されるとは思ってはおらず、事態の深刻さに茫然とし、男を見つめていた。
この事件のカップルは、もちろんすごい。しかし、考えてみてほしい。誰がいちばん可笑しいのか。検事だろうか、車掌だろうか。いや、事件の一部始終を身を乗り出して目撃していた私の友人・ヤマムラが何よりも可笑しいのである。