可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

意味もなく花笠をかぶる

 いつになく長く感じられた冬も終わり、今年は一気に暖かくなった。春、桜の季節の到来である。桜や気持ちがいい風に誘われてか、冬の間はどこかに身を潜めていた可笑しな人たちも町へと出てくるものだ。

 つい先週、外は汗ばむほどの陽気で、私は薄手のパーカー1枚を羽織っただけで、駅の改札の前を考え事をしながら歩いていた。突然、視界になにか普段見かけないものが入ってきたのだ。はっとして改札の方を見やると、花笠をかぶったおじさんが改札に向かって歩いているではないか。その笠は、よくあるような緩やかな八の字ではなく、鋭い円錐形で頭上に聳えているのである。そして、その笠の側面には赤い花があしらってあった。

 おじさんは襟の付いたシャツにスラックスという姿で、頭だけが異様な格好である。それはなんともアンバランスだ。ひょっとしたら、したり顔で闊歩しているのかもしれないが、改札の方へと向かうおじさんの表情はこちらからは窺い知ることが出来ない。それだけであれば、まあそういう人もいるのだろうと見過ごしたかもしれないのだが、その笠に花と並んで大振りの柿がいくつもあしらわれているのを見て、これは大変なことになったぞと私は思ったのだ。

 何しろ柿である。いったいこのおじさんは何がしたいのか。これによって何かメッセージを伝えようとしているのだろうか。例えば、それは「柿、はじめました」だろうか。しかし、こんな駅の改札口で突然、柿をはじめるとはなんのことかわからない。果物屋とか、柿を使った料理を出す料理屋とか、自然と柿がはじまると思われているところでなければ、そういうメッセージは意味をなさないのである。あるいは、「生まれかわったら、私は柿になりたい」だろうか。それはカキはカキでもカキ違いじゃないか。貝になるなら牡蠣だろう。あるいは、柿を干しているということだろうか。日々生活しながら、頭上で干し柿を作ることで生計を立てている。いや、そんなことはありえない。とにかく駅前には可笑しな人がよく現れるのだ。

 10年ほど前のことになるだろうか。ちょうど春先の雨上がりの肌寒い夜だった。友人と外出し家の近くの駅の改札を出たまさにその時、事件は起こった。前から細身で白髪のおじさんが私の方を睨みつけて歩み寄ってきたのだ。私は咄嗟に身の危険を感じた。ひょっとして殴られるのではないか。私は足を止め身構えた。どうにかしてかわさなければならない。するとそのおじさんは私の顔の目の前で立ち止まり顔をぐっと近づけて、こう言ったのだ。

「長崎は、今日も雨だった」

 呆気に取られている私をじっと見つめて、さらに追い打ちを掛けるようにおじさんは言い放った。

「我が人生、悔いあり」

 私たちは大笑いした。おじさんは「じゃっ」と言ってその場を去っていった。ひとしきり笑った後で、私たちは考え込んでしまった。あれはいったい何だったのだろうかと。よく考えれば、ただ唄の名前を言っているに過ぎない。それによって彼は何が言いたかったのだろうかいまだにわからない。

 私たちは不可解なものに出会った時に、そこに「意味」や「メッセージ」を求めてしまう。それはなぜなのだろうか。それは私たちがそこに、意味やメッセージが有ってほしいという願いを実際には持っているからだ。せっかく時間を費やしてしまったものに、何かしらの価値を求めてしまう心性にその原因がある。私はもう一度冷静になって考えてみたい。花は花、柿は柿、長崎は雨。ただそれはそれで受け止めておこうじゃないか。そして、そのまま受け止めることの困難さを感じるにたびに、あのおじさんの自由さをただただ痛感するのだ。何しろ、意味もなく花笠に柿をあしらってかぶっているのである。