可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

カレー屋の小芝居

 休日の午後、吉祥寺のある店でカレーを食べていた時のことだ。その店のカレーは黒々としたルーの上に、刻んだパクチーが載せてあり、味にちょっとしたアクセントを与えていた。うまいなあ、どうやってこんなにうまいカレーを作るんだろうなあと感心しながら食べていた。汗かきなもので、タオルで汗を拭いながら周りを見回すと、カウンターには他にも何人かの客がカレーを待ちながら本を読んでいたり、黙々と食べていたりした。カウンターの中ではマダムっぽい女性が二人、小気味よくライスやカレーを皿に盛ったりしているのだ。

 カレーを食べ終えた背の高い男性客が一人、

「ごちそうさま!」

と言って会計をすると、店員の二人は

「どうもありがとうございます」

と言った。すると、男性は立ち上がりドアの方に向かう途中でカウンターの中の女性の方を向き、私の頭上でこう言ったのだ。

「こんなに美味しいカレー、どうやって作るんですか?」

 それはあくまで感動した素人の素朴な質問だったのかもしれない。ちょうど私の目の前に居た店員のマダムはすかさず、

「さぁ、わたしにもわからないんですわぁ」

と言った。マダムを見上げると、どうやって作るんだろうねというような表情をしている。カレーを仕込んでいるのは私ではない、私はただ盛りつけてお客さんたちに出しているだけなのよ、と言わんばかりである。しかし、その表情の片隅に何か笑みが隠されていたような気がしたのだった。後ろで働くもう一人の女性はまるで何も聞こえていないかのように、手を止めずに皿を用意していた。男性客はそれに対して何も言わなかった。一瞬の沈黙があった。その時、事態は急変した。

「すみません、教えられません」

と女性は言い直したのだ。きっぱりとした言い方で。そして、彼女は深々と頭を下げた。その潔さに私は改めて感じ入ることになった。

 一体あれは何だったのか。店員が客に不快な思いをさせることなく、断ったりする時にちょっとした演技をすることはままあることだ。けれども、どうしてその演技を最後までやり通すことが出来なかったのか。私にはそれが不可解でならなかったのだ。ひょっとして、私からは見えなかった客の表情に何か異様なものがあったのだろうか。例えばパクチーを咥えているとか。それともたまたまこの店に来た私が知らないコンテキストがあるのだろうか。

 たとえばこう考えてみたらどうだろうか。この男性客は実はこれまでも幾度もこの店を訪ねてきており、毎回食べ終えて店を出る時に、「こんなに美味しいカレー、どうやって作るんですか?」とカレー作りの秘訣を聞き出そうとしていた。店員は最初のうちは軽く、「私にもわからないんです」と受け流していた。それで諦めるだろうと考えたわけだ。ところが、何を思ったか、男性は懲りずに毎回このことを質問し続けた。10回、いや100回くらい聞き続けていたかもしれない。最初に演技をしたものだから、店員もその設定をあくまで踏襲しなくてはいけないのではないかと思い、律儀に「わからない」をくり返していた。しかし、この日、私の前で彼女のそうした緊張の糸が遂に切れてしまったのだ。そういう歴史的な現場に私は立ち会ったのかもしれない。そうだ、歴史なのだ。そこには深い葛藤があったのだ。マダムは「私、次に聞かれたら、もう答えてしまうかもしれない」そんなことを考えたりもしていたのだ。そう考えると、「わかりません」も「すみません、教えられません」も、その時の表情までもが、重みのあるものとして迫ってくる。

 私たちは一度演技を始めると、自分とは違うものであっても、そこに一貫性を持たせようと無意識に行動する。そして一貫性を持たせようとすればするほど、そこにある嘘に気付か過ざるを得ないのである。でもと私は思う。何も演ずることなく紛れもない自分自身である人は、本人であるがゆえに自分が演じてしまっている嘘を意識することがない。しかし、自分が何かを演じていると常に頭の片隅に置いておく必要がないのだとしたら、その人はかなり危ない人なのではないか。

 むしろ、常に何かを演じ、演じているが故の嘘に意識的である方が、ずっと客観的に物事が見れるし、また他者とも折り合いがつくのではないか。何しろ演じているものは私ではない、何かしらの役だ。そして、そこにまた私たちが、仕事や役割というある種の演技を行うことの本質があるのではないかと考えたりもするのだ。