可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

不適正な写真

 たまたま職場で運転免許証の話になり、最近更新した人が持込写真が使えるようになったと言ったのだった。すぐに警視庁のwebを調べてみると、交付までの時間が少しかかるものの、確かに使えるようになっていたのである。「持参写真による更新手続案内」と書かれたページには写真のサイズや背景などについての条件が書かれていた。しかし、私の興味を惹いたのはそれではなく、その下に並ぶ「不適正な写真例」の方だった。
 「顔を傾げている」の文字の上には、女性モデルが顔を傾げている写真が置かれている。「正面を向いていない」の文字の上には、ハスを向いた女性が写っている。これだけではない。「中心からずれている」や「明るすぎる」、「衣類で隠れる」や屋外で撮影した「スナップ写真」までもが不適正な例として挙げられているのだ。
 私はこの無数に並んだ不適正な写真の女性モデルは、ひょっとしたらこの数々のポーズを心の底から楽しんでやっているのではないかと思ったのだった。というのも、不適正な例「笑い顔」の彼女が、笑っていたからだ。もちろん、それはサンプルとして笑っているのだが、どうにも彼女が演技しているようには見えなかったのだった。そして、一度そう思い始めると、髪を左目の前に垂らして「目が隠れている」写真や、「目を細めている」写真も、その不適切な写真の中に、企みの笑みを見出さざるをえないのである。
 スキーウェアのようなものを首まですっぽりと着込み「衣類で隠れる」写真や、何やら枠から顔がはみ出してしまうようなアップの写真を見る。そして、「笑い顏」の写真を見ると、彼女は笑っているのだ。やはり彼女は楽しんでやっているのだ。
 ふと思った。パスポートセンターにもやはり不適正な写真集があるのではないか。早速調べると、確かにあった。あるいは、他の都道府県はどうなのだろうか。神奈川県は写真も枚数が少ないがヤンキー対策なのだろうか、女性モデルが真っ黒いサングラスを掛けたりしている写真を載せている。千葉県は、不適正な写真はイラストで説明している。
 私は思った。やはり東京都のモデルとスタッフは、不適正な写真集の日本一を目指しているのだ。もう一度、「笑い顔」の彼女を見る。これらの写真の出来に満足し、笑みを浮かべているに違いない。

Link:
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/menkyo/menkyo/kousin/kousin02_2.htm

一番乗り

「友田さん、あれ、行ってきましたよ!」
 そう言いながらギラギラとした目つきで職場の後輩が追いかけて来た時、いったい何のことを言っているのか私にはわからなかった。元はと言えば、私が焚きつけたのだった。去年の暮れのこと、昼食時に職場の後輩が選挙の投票所で最初に投票する人は箱が空なのを本当に確認しているのだろうかとつぶやいたのがきっかけだった。そしてつぶやく彼は、実際のところ自分自身が一番乗りを果たしてみたい、と言っているように私には感じられたのだった。そこで私は言った。
「ひょっとしたら、誰も確認なんてしてないんじゃないか?」
 すると彼はますます気になるという顔をした。
「日本にこれだけ投票所があるんだから、そこで一番になることなど、容易いことだ。君ならできるよ!」
 私がそう言うと、
「たしかに、そうですね!」とテンションが上がりに上がった彼は興奮しながらどこかへ行ってしまった。それっきり私は焚きつけたことなどすっかり忘れていたのだったが、彼は実際に一番乗りに挑戦したのだった。
 彼は12月の衆院選の当日、またとないチャンスに用心して投票所に10分以上も前に到着したのだった。そこには、すでに数人の男性が立っていた。彼はしまったと思った。やはり一番乗りのためには、もっと早くに来るべきだった。もちろん、一番乗りが投票箱を確認するかどうかを見届けるのが目的であり、彼は定刻になるのをそこで並んで待っていたのだった。
 間も無く7時になるという頃になっても、後からは誰も来なかった。そして、ぼーっとしながら立っている彼に、前に立っていた背広姿の男がこう言ったのだ。
「ひょっとして、投票に来られた方ですか?」
 そこに立っていた男性たちは選管の係員だった。つまり後輩は完全に選管係員に溶け込み同化していたのである。
「はい、そうです」と答えると、係員はすぐに彼を中へ案内した。
「あと2分です…あと1分です…」係員が場内に声を響かせる。そして、いよいよ定刻になった。後輩はついにきたその瞬間に興奮していた。係員が立会人代表の長老に「では、お願いします」と言うと、その長老は声高に宣言したのだった。
「8時になりましたので、投票を開始します!」
 慌てたのは係員たちだった。
「ちがいます、ちがいます、7時です」
 そして、そのまま長老は中座してどこかへ連れられていったのだった。後輩の彼は投票用紙に記入し、そして空っぽの投票箱をたしかに確認したのだった。
 その一部始終を語る彼は本当に満足げだったのだ。そこで私は言った。
「手を入れて確認したの?」と私が言うと、
「しまった、それやればよかったです」と彼は悔しそうにため息をついた。
 さらに私は言った。「何か入ってますって言ってみたら?」
 こうして私は再び彼を焚きつけられるだけ焚きつけ、そしてすっかり焚きつけたことなど忘れてしまうのだった。

「本日休載」について

お久しぶりですが、みなさんお元気ですか? 元日に書いた回特に意味もなく次は2月19日にと書いた。特に意味もなくそう書けたのは、この日が現実感のない遠い未来だったからで、実際近づいてみれば、いくら日々淡々と暮らしている私にもそれなりに急用が入ったりするものである。当然のことながら、誰にだって立て込む時は立て込むなものだ。つまり、何が言いたいかといえば、「本日休載」なのである。申し訳ない。

 
そして、私はここである可笑しさに、ふと気付いてしまったのだ。普通に毎週書いてきたところでの「本日休載」であれば、ある意味よくあることなのかもしれない。しかし、お正月に8回分の合併号を書き、8回も休んだ後のさらに休載だとすれば、もはや「本日休載」と言われても、ピンとこないし、そんなことを言った人もいないのではないか。前代未聞である。週刊誌の合併号の後でいきなり休載になるということがあるのだろうか。先日、文芸誌で見かけたのは、「今回から再開します」だ。なるほど、いろんな休み方があり、始め方がある。おそらく8回休んだ後で、さらにもう一度休むことだってあってもいいのかもしれない。一度に2回書くのもいいかもしれない。
 
さて、本日は休載である。時間がないわけではないが、体力的に書けなかった。そして、ふと過去に自分が書いたものを読んで、よくもまあこんなにどうでもいいことをよく書いたものだと感心し、疲れ切った私はまた随分とその無意味な努力に勇気付けられもしたのだ。しばらくは書くことよりも、過去に書いたものを読むことが続くのかもしれない。
 
休載といいつつ、結局かなりの文字数を書いたことになる。ただ、いつもとは書き方も違う。これからしばらくこのような不定期の更新になったりするかもしれない。引き続きお付き合いいただければ。
 

はじめて週刊少年ジャンプを買ってもらった時のこと

 あけましておめでとうございます。このエッセーも書きはじめてから1年以上が経った。この一年間痛感しているのは、読んでくれている人がいると思うだけで、不思議と可笑しなことを見つけつづけられるということだ。いつもお読みいただき本当にありがとうございます。

 さて、年末に大阪の地下鉄淀屋橋駅のアーチ状の天井を見上げたら突然思い出した。小学生のころ、正月に親に連れられて出掛けた時に、この駅の売店でうまれてはじめて週刊少年ジャンプを買ってもらったのだった。そんなことはすっかり忘れてしまっていた。なぜ、突然ジャンプを買ってもらうことになったのだったか。

 どうしても読みたい漫画があった、わけではなかった。当時、私は近所の書道教室に通っていた。その前年の暮れのこと、いつも書道教室から一緒になると一緒に帰っていた二つ年上の近所の先輩が帰り道にある小さな本屋さんでジャンプを買ったからだった。それがただいつもの週刊少年ジャンプなら私の興味をそれほど惹くことはなかったかもしれないが、私が気になったのは、背表紙に書かれた
「1・2号」
の文字であり、先輩がそれを「イチ・テン・ニ・ゴウ」と読んだことだった。

 私は驚いた。号数が、1とか、2とか、あるいは38とか、40とかではなく、1・2とはどういうことだろうか。私は尋ねたのだ。
「号数なのに、小数なんですか?」
「そうだよ」と先輩は言った。「3・4(「サン・テン・ヨン」と彼は言った)とかもありうるんだよ」
1・2号は2号よりも1号に近く、3・4号は同じように4号より3号に近いが、その近さが少しずつ後ろに近づいていっていた。私にはそれが意味がわからなかった。そんなことをして、どんな意味があるというのだろうか。
 そして私は自分でもそれを手に入れてみたくなったのである。正月に売店の店先で見つけたジャンプを買ってくれと親に頼んだ。たしか、そこにはゆで・たまごの読み切り漫画が巻頭カラーで掲載されていたのだった。買ってもらった週刊少年ジャンプの3・4合併号を私は読んだ。そして、私の興味を最も惹いたのは、ジャンプ放送局だった。
 さて、その後私は自分でせっせと漫画を書いたり、文章を書いたりしてはコピー機で印刷し、雑誌の体裁をととのえて、友だちに配ったのだった。しかも、それは週刊誌でなくてはならなかった。なぜなら、私も合併号が出したかったからだ。合併号を出すためには、それが毎週発行されていなければならない。当時、それほどその熱意がつづいたような記憶もなく、おそらく合併号というようなものは出せなかったのではないか。そのチャンスは訪れなかったのだ。
 いま、ふと思うのだった。もし、合併号を出す機会があるとすれば、まさに今なのではないか。私は1年以上毎週、誰に頼まれるわけでもなくエッセーを書き続けてきたのだった。そして、今ここで合併号を出したいのだ。やるならしかもドーンとこれまでにないような合併号を。

 1.2.3.4.5.6.7.8

 もはや小数ですらない。まるでIPv6のアドレスのようだ。8号分の合併号である。特に意味はない。ただ前代未聞の合併号を出したかっただけだ。合併号というからには、8週後からまたいつものようにつづけていくわけである。いや、正月からなにを言ってるのかわけがわからないが、つまり次回は2月19日(木)の予定だということだ。また引き続きお付き合いいただければ幸いである。そして、皆さんにもこれから1年間可笑しなこととの出会いがたくさんあることをお祈りする次第である。

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なぜお客さんは一斉に帰ってしまうのか?

 夏に旅行した時に、喫茶店で働く後輩の女の子から託された課題だ。

「なぜ一斉にお客さんは帰ってしまうのでしょうか? すっごく混んでいたのに、誰かが帰りはじめると、次々と帰ってしまって、お客さんが誰もいなくなるんです。いつものエッセイで考えてみてください」
 私はお題をもらったことに感謝し、そしてお安い御用ですと引き受けたのだった。しかし、時間を見つけては考えてみるのだが、一向に納得のいく答えにたどり着かないのだ。このまま年を越してしまうのではないか。私は焦った。そして、答えは「わかりません」だったと書いてしまおうかと考えたことも一度ならずあった。
 ところが、ふと何かの拍子に気づいたのだった。店員さんが不思議に思いながら次々と帰っていくお客さんたちをなす術もなく見送るかたわらで、私もまたどちらかと言えば、帰りゆくお客さんたちを帰らずに眺めている人間だったのだ。だから、帰ってしまう人の気持ちがわからなかったのである。このことに気づいたのは、初台にあるfuzkueというお店で本を読んでいた時だった。どうして気づいたかというと、ここのお客さんは次々と帰ってしまわなかったからである。それはなぜなのか? このお店は、持続的な会話と学生さんのテスト勉強はお断りである一方で、どれだけ長居してもいいし、長居したからといって気を遣って食べものを頼んだりしなくてよく、くつろいで心ゆくまで本を読んでほしいというポリシーが掲げられている。そして、この店主の阿久津さんが書かれているように、そこにはポリシーに賛同した人だけがいて、ゆるい共犯関係(http://fuzkue.com/entries/36)を結んでいるのだ。だからこそ、そこの空気を作ることに自分も関わっていることに自覚的だ。まわりが帰ってしまっても、自分がそこに居たい限りは、みなそこにいることになる。
 同様に、喫茶店の雰囲気は、お店の人やお客さんたちが醸成しているもので、いつでもそこにあるものではない。ところが、お客さんはそのことを忘れているような気がするのだ(もちろんそれでかまわないのだが)。そして、1人帰り、2人帰っていくと、永久機関のように思われたその世界が崩壊しはじめたことを感じ取り、人は我先になるべくならその終末を見ずに帰ろうとするのではないか。

 もちろん自信はないのである。だが、もうしばらくそこに留まっていれば、また後からお客さんが入ってくる。そして後から来た人たちが、まるでずっと前から、何日も何年も前から変わることなくそのゆったりとした世界がつづいていると感じるのだ。そこに何か意味を見出しているわけではない。ただそれから私は本を閉じゆっくりと帰るのである。

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ちゃんと謝る

「もっとちゃんと謝ってほしかったです」

テーブルの向かい側で立ち上がった女性がそう言った時、私はドキッとして思わず本から顔を上げてしまったのだった。しかし、それは私に向けられた言葉ではなかった。すでにコートを着た彼女は真剣な眼差しで隣に座っている男を見つめると、それ以上は何も言わずに去っていったのだった。
 テーブルにノートPCを広げたままの隣の男の顔は半ばにやけたままで硬直していた。次の展開を待ちながら、冷や汗をかいている。いったい、ふたりに何があったのだろうか。話し方からも、また後を追おうともせず、携帯を取り出して連絡を取るでもない、かといってため息をつくわけでもない様子から、ふたりが恋仲というわけではないに違いない。が、ではまったくの赤の他人だったのだろうかというと、そこは判断しかねるのだった
「もっとちゃんと謝ってほしかった」というからには、男も少なからず謝ったのに違いなく、また男も
「ここはひとつ、いい加減に謝っておくか!」
などとはふつう考えないはずで、そうすると男は男なりに謝ったのに、彼女にはその謝り方が誠実さに欠けると写ったのだろう。いったい、どんな謝り方をしたのか、私には気になったのだった。「さーせん」だろうか。
 世の中には不誠実な謝罪というものがある。小学校のころに林という同級生がおり、年のわりにがたいのよかった彼は意味もなく教室じゅうを暴れ回っていた。ことの道理として、暴れれば人にぶつかる。彼はそこでいつも大声でこう言うのだった。
「スマン!」
 本人はこれで謝罪は十分と思っているのだが、まわりは不満を漏らし、ついには学級会でこの謝り方がやり玉にあがったのだった。
 だからどうしたというのか。当時、彼は学級会で何と言って謝っただろうか。
「ちゃんと謝ってほしかった」
という女性のひと言が、私に遠い昔の暴れん坊の林を思い出させたのだ。それほどまでに、この女性のことばが気になったのは、まるで私がそう言われたような不安を換気したからである。私はわりと人から叱られる。そしてそのことにひとつひとつちゃんと謝っただろうかと考えるのだった。意外なほどに、タイミングを逃してしまうと、もはや謝ることは叶わずに、ただ悶々とすることになる。
 だから、どうしたというのか。いや、この話にはオチらしきオチなどなく、知恵もない。そのことについて、申し訳ありませんと、ただ深々と謝るよりほかないのである。

映画『ゴーン・ガール』と失くしたもの

 試写会で『ゴーン・ガール』を観た。アメリカ中部の田舎町に移り住んだ夫婦の結婚記念日に、夫が帰宅すると妻が失踪しているのだ。不穏な空気が漂っている。誘拐なのだろうか、それとも。気づけば私はあらゆるものを疑いの目で見ている。どれが本当で、どれが嘘なのか、どれが素で、どれが演技なのか。どうやったらそれを知り、あるいは相手に信じてもらうことができるだろうか。だんだんとわからなくなってくる。私はそんな映画を怖がりながら楽しんだのだった。
 話は変わるが、先日、参加したイベントのパーティの帰り際に、パスケースを失くしてしまったことに気づいた。いったいどのタイミングで落としてしまったのだろうか? まったく見当がつかないのである。すぐに警察に届け、Tカードを停止するためにコールセンターに電話をした。ここまでは順調だった。ところが、このカードにはご存知のようにレンタルとポイントカードの機能があり、どうやらこれはまた別のコールセンターで手続きをする必要があるらしいのである。
 何か嫌な予感がしたのだ。電話に出た男性が本人確認のために住所を問う。私が住所を言うと、
「えー、恐れ入りますが、ちがうようです」
と言う。そうだった、私は前回引越した時に、住所変更をきちんとしていなかったのだった。そこで、前の住所を思い出しながら言ったのだ。
「うーん、それもちがいます」
コールセンターの男は冷たい声で言う。私は少しずつ自分が誰か他人になりすまして、嘘をついているような気分になり、焦りながらこう言うのだった。
「住所変更の手続きをちゃんとやってなかったのかもしれません。その前の住所は、所番地までは覚えていないんですが、八王子市××町 ○○寮だと思います」
なんとかそう伝えると、再び彼は
「いずれの住所も違います。では、電話番号はどうですか?」
と半ば呆れた様子で言うのだ。うっすらと汗をかきながら、携帯電話の番号を言ったのだが、
「登録されている番号とは違うようです」
と言い返されると、私はもはや6年ほど前から番号を変えていないことを思い出し、
「それ以外の番号は思い出せません」
と言うよりほかなかったのである。
 もちろん、きちんと手続きをしていなかった私が悪い。しかし、と私は思うのだ。仮にきちんと変更していなかったとして、3つも、4つも前の住所を答えなければならないような状況に陥った時に、3つも、4つも次々と住所を諳んじられるような男など、きっと本人ではないにちがいない。どちらかと言えば、
「わからなくなってきました」
と答えるものの方が本人だろう。しかし、わからなくなった者が、ただ茫然とすることを認めてはくれないのである。
「固定電話は持ってませんか?」
「このカードを最近どこで使いましたか?」
「もっと最近どこかで使っておられませんか?」
彼は次々と私に質問をぶつけつづける。私は私であることを認めてもらうために、投げかけられた問いに、必死に答えつづけねばならない。
「あなたは本人ではありません」
いつかそう言われるのではないかと想像することは恐怖以外の何ものでもないのである。
 『ゴーン・ガール』の話に戻ろう。3時間近い長編ながら、観客に息をつかせることなく、真相はどうなっているのかと考えさせる。登場人物も観客も、トラブルに巻き込まれ、時に自分が信じていることが間違っているのかもしれないと考え、わけがわからなくなってくる。しかし、茫然として立ち止まることは許されない。その恐怖たるや、もはやジョークとして時々笑いながら観るよりほかない。ぜひ劇場に足を運んでほしい。

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