可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

ちらし寿司のある生活

いつかこんなのが書けたらいいなとつねづね心に留めているエッセーがある。大学時代の文集に後輩が寄せたものだ。それは高校時代の寮生活を綴ったものである。

高校時代の寮生活というものがどのようなものか、経験のないものにとってはそれ自体が興味深いのだが、それだけではない。たとえば一年の最初だ。入寮すると、すぐに歓迎会があり、入学式がある。そして、彼は唐突に言う。「歓迎会、夕飯はちらし寿司」。

1年生は大部屋で暮らす。100人もの生徒が暮らす大部屋での生活の大変さ(何しろ年頃の男子だ)について綴ったものがあり、文化週間があり、体育祭がある。そして、それらのエピソードを語り終える時、彼はわざわざ言う。「夕食はちらし寿司」

いまその記事が手元になく、だから私は記憶を頼りにこれを書いている。夏休みには寮生向けの映画の鑑賞会が開かれるのだったはずだが、そこで上映されたのはなんだったか。記憶は定かでないのだが、そう、彼は映画を愛しているのだ。そして、てっきり全寮制だと思っていると、途中で自宅から通学している生徒も現れる。そして何かの行事では通学生は即座に帰宅するのだが、寮生だけはその後残され、そして彼らは節目の夕食を共にする。もちろん出されるのは、ちらし寿司だ。

読むものは次第に、ちらし寿司のフレーズが癖になってくる。次はどこでちらし寿司が待ち構えているのだろうか、私たちは体を少し強張らせる。それだけ節目のご馳走なら、きっとうまいのだろうと想像してみるのだが、どうやらそれほどうまくないらしい。大きなイベントがある。夕食はまたしてもちらし寿司だ。

これがにぎり寿司やうな重ではこうはいかないのだろう。にぎり寿司はなまもので傷みやすいし、うな重では本当にご馳走だ。金糸卵や甘く煮た椎茸に酢のきいたレンコン、絹さやで色味をよくして、隅っこには紅生姜。やはりちらし寿司でなくてはならない。

そして、物事には終わりがある。卒業だ。そこでもやはり彼は言う。「やっぱり、夕飯はちらし寿司」と。本人もこれだけちらし寿司が出てきたら、もはや笑うしかなかったのだろう。私もまた乗り出して、ライブの観客のように筆者と一緒になってちらし寿司を連呼していた。

そんなエッセーのことが気になって、日本にいる仲間に頼み、この記事を写真に撮って送ってもらった。便利な時代である。そして私はファイルを開いてみて、驚かされた。長文のエッセーだと思っていたものは、イベントごとに短い文章が添えられた箇条書きだったのだ。私の記憶の中の詳しい記述はなんなのだろうか。そこには、簡潔な説明の後で、ややぶっきらぼうに「なぜか夕飯はちらし寿司」などと書いてあるのだ。

たしかにこれだ。私は懐かしさをかみしめながら、熟読する。記憶の中で繰り返していたものと、オリジナルは随分違ったわけだが、当時も今も、これは面白い、こんなのがいつか書けたらという気持ちは変わらない。

そんなことを書いていた彼が、今週末に結婚式を挙げるという。私も明日仕事を終えたら、夜のフライトで東京に向かう予定だ。まさかな。でも、ひょっとしたら。私はやはりどこかでちらし寿司が出てくるのではないかという期待に胸を膨らませている。

おめでとう。おめでとう。おめでとう。ちらし寿司。

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(写真は本文と関係ありません)