可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

男たるものかくあるべし?

 随分と前のことだ。午後、出張に向かうために乗った中央線快速の東京行きはわりと空いていた。空席はないが、かといって大勢が立っているということもない。ぽつぽつとつり革を持ったりドアの脇に立っている人がいる程度である。その時点ではまだ私はそれから起こることに何も気づいていない。電車が途中の駅に停まると、
「ハッ、ハッ、ハッ」という快活な男の声が聴こえてきたのだった。
 読んでいた本から顔を上げると、体格の良い白髪混じりで髪をオールバックにした和服姿のおじいさんと、小柄で背の低い紫の着物を着た初老の女性が乗り込んでくるのが目に入った。まるで漫画『美味しんぼ』の海原雄山のようなこの男性が腹から出した声で言う。
「なんと、満席ですなぁ」
「仕方ないですね」とそれを受けて女性が笑顔で答える。
 すると、突然男性は言うのだった。
「青年! ちょっとそこの青年!」
 しかし、これには誰も反応しない。青年?と私は思った。ひょっとして私のことだろうか? 俯いていると、近くに座って漫画を読んでいた学生が反応した。
「そうだ、君だ! ここに女性が立っているだろう? わかるか?」と男性がその学生に顔を寄せるようにして、まくしたてた。一緒にいた女性は、
「後藤さん、いけまんせんよ。皆さん座ってらっしゃるんだから」と遮り、学生の方を向いて、
「いいんですよ。気になさらないでくださいね」と言うのだった。
 しかし男は諦めない。
「ほら、青年。わかるか? なぁ、わかるだろう。こうやって女性が、、なっ、わかるだろう?」とくり返し言い続けた。めんどくさくなって学生はすっと立ち上がると、どうぞというのでもなくドアの方へと歩いていった。
「いえ、ほんとにいいんですよ」と女性が言う。「悪いわ。もう、後藤さん、ダメですよ。こんなことなさったら」と少し叱るように男に言うが、男はそんなことは聞き入れずただ
「ハッ、ハッ、ハーッ、青年、青年! おい青年。どうもありがとうー! ありがとう!」
と言って学生に握手を求めるのだった。握手をすると、また大きな声を出して笑う。
「ハッ、ハッ、ハーッ」
 その後も、電車通学している中学生の男子たちが並んで座っているのを見つけると、
「少年、君たちも疲れているのか?」と少ししゃがんで目線を合わせて、ドアの近くに立っているサラリーマンを指差して
「あそこの疲れているサラリーマンのおじさんと代わってあげなさい」などと言うのだ。しかも、サラリーマンには怪訝な顔をされて断られてしまうのだ。すると今度は近くにいた若い女性に代わらせようとする。
 私は本を読みながら、遠目で観察をつづけた。この老人がすごいのは、結構な年齢であるにもかかわらず、決して本人は座ろうとしないことである。男たるものこうでなければいけないのかもしれない。
 吉祥寺だったか、荻窪だったかでふたりの老人は唐突に降りていった。降り際に、席を譲ってくれた中学生たちに、
「少年! どうもありがとうー!」と手を挙げ、「ハッ、ハッ、ハーッ」と笑いながら降りていったのだった。そして、なぜか彼が去った後の電車の中はふんわりと温かい空気に包まれ、知らぬものもみな顔を見合わせたのだった。