可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

餃子を買って帰る

 随分と前に筆談ホステスというのが話題になった。耳の聴こえないホステスが、お客さんと筆談で話をするのだという。それを聞いて、私はまっさきにたのしいだろうなと思ったのだった。というのも、似たような経験があったからだ。それは学会で北京を訪れた時のことだった。昼は研究会に参加し、夜は夕食を食べた後、大学の宿舎で買ってきた酒とつまみで先生たちと飲んでいた。ある時、先生がどこからか大量の水餃子を手に提げて帰ってきた。
「筆談で買うんですよ」
先生は何もない空間に表札を形どるようにして手を動かし「餃子五十個とね」と言った。
 翌日、大学院生だった私たちも夜の町に繰り出した。一本入ればまだ舗装されていない通りを行くと、パッと灯りのともっている食堂が目に入った。私たちはその店に入った。店員の女の子は何やら話しているのだが、中国語を知らない私たちにはなんのことかわからない。カバンから大急ぎでノートを出すと、私たちはこう書いたのだった。
「持帰餃子百個」
すると女の子はニコッとわらい、そして再び私たちに向かって何かを質問しはじめた。私たちはそこで、ペンを彼女に握らせ、紙の上を指した。彼女がなんと書いたのか覚えていない。私はわからないと伝えようとして、漢文風に「不可分」と書いてみたが、それすら相手には伝わらない。私たちも困っていたし、彼女もとても困惑しているようだった。
 けれどそれは決して不快な時間ではなかった。とても不思議な感覚がしたものだった。彼女は一人宙を見つめては考えて、何か思いつくと笑顔で文字を書いてくれるのだった。私たちがわからないでいると彼女は次々と文字を書いてくれたし、また私たちも何か通じる文字があるのではないかと考えては書き足していったのだ。日々何かと通じないことでストレスを感じてしまうものだが、むしろこの簡単には伝わらないことを肯定的に受け入れ、互いにすこしでも理解しようとする時には、他では得られない心地よさがあるのではないだろうか。
 しばらくすると彼女はメニューを持って戻ってきた。餃子と言ってもいろんな種類の餃子があるらしい。具に使う肉の種類が羊肉、猪肉などと書かれている。そこで、私たちは、「羊肉五十個、猪肉五十個」などと書いた。
 頷いた彼女は厨房にオーダーを通すとテーブルの上に箸と皿を並べはじめた。私たちはここでテイクアウトであることを伝え損ねていることに気づいたのだ。私は焦った。そして、彼女をもう一度呼び止めると、紙に「持帰」と書いた。しかし、彼女は何が可笑しいのか、クスクスっと笑っているだけで、首を振ってわからないという表情をするのだった。
 漢字が通じないのならと私たちはジェスチャーで餃子を受け取り、そしてそれを手に持って店を出る振りをしてみる。しかし、通じない。どうすればいいのだ。このままではここで餃子を百個も食べることになってしまうではないか。焦りに焦っていたその時だった。店の奥から酔っぱらった男が何やら大きな声を出しながら出てきたのだ。私は身の危険を感じた。
「じぇええすぴーぃえすー」
何を言っているのかわからない。何を言っているのかわからない大きな男がまっすぐに私たちに向かって近づいてきていた。
「じぇーえぇぇすーぴーえすー」
そして、彼は私たちの正面に立つと、こう言ったのだ。
「JSPS」
 突然のことに私たちは呆気に取られていたが、彼は英語で自身のプロフィールを説明しつづけた。JSPSとは日本学術振興会のことで、彼はその助成を受け、京都大学に留学した経験があったのだった。彼は私たちのオーダーを聞くと、たちどころにそれを中国語に翻訳してくれた。私たちは餃子をテイクアウトすることが出来たのだ。そして、私たちの伝わらない筆談の時間は呆気なく終わってしまったのだった。もう少しあの筆談をつづけたかったような気もしている。