可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

視線の送り方

 紀伊国屋書店で本を買い、新宿駅への地下道を歩いていた。改札口へと続くゆるやかなカーブを描く階段を上がっていくと前方から

「チラッ、チラチラ」

という女性の声が聞こえてきた。顔を上げると、百貨店の紙袋を提げたご婦人が満面の笑みで、顔を突き出して声を出しているのである。

「チラチラ、チラチラ」

 私は具合でも悪いのだろうかと思った。なにしろ、人通りの多い地下道で立ち止まり、不気味にチラチラと言い続けているのである。しかし、ご婦人の視線はどうやら向こうから歩いてくる20代の女性2人組に向けられているようだ。2人組が近づいてくるにつれて、顔の向きを少しずつ動かしながら、ご婦人は

「チラチラ、チラチラ」と繰り返すのだ。いったいこれは何なのだろうか。

 一方、若い2人組はと言えば、

「それがねぇ、木村さんがこないだ、渋谷でなんとかさんに会ったんだって」

「あはっは、まじうける」

などとおしゃべりをしながら、ご婦人には気付かずに、通り過ぎていくのだった。

 間に挟まれた位置にいた私は行く末を見届けずにはいられなかった。ご婦人はこの後どうするのだろうか。そして、三越と109ほどの違いがあるご婦人と2人組の間にどのような関係があると言うのだろうか。伝わらない相手にどうしたものかと考えた彼女はさらに力を込めてこう言ったのだ。

「チラチラ、チラチラチラッ」

 彼女は一歩も動かないが、目は2人組を追いかけて行く。声は次第に大きくなり、彼女たちに向けて力一杯に声を出しているのだ。

「チラチラ、チラチラチラ、チラチラチラッ」

 ところが無情にもその2人組はまったくそんな視線に気付くこともなく、地下道を向こうへ、楽しそうにおしゃべりをしながら並んで歩いていくのだ。かなり遠ざかり、あと少しで角を曲がり、視界から消えそうになった時だった。「チラチラ」と言い続けていたご婦人は吹っ切れたように突然こう言ったのだ。

「山田さーん」

 それは透き通る声だった。命からがら、もうこれ以上なにも言えまいという顔をしていた。私は意表を突かれた。すると、2人組のうちの一人が振り返り、

「あぁ、鈴木さん!」と言った。どうやら知り合いだったらしい。

 挨拶する彼女らを見て安堵を覚えるとともに、可笑しな気持ちになった。名前の呼び掛けに気付いて応じた20代の2人組は永遠とも思える「チラチラ」の嵐に自分たちが見舞われていたことを知らないのである。知っているのは私だけだ。これは異様な光景だった。ことさらに私に異様さを感じさせるのは、それが徹底した擬音語だったからだろう。仮に最初から彼女が名前を繰り返し呼んでいたとしたら、私はその場をなにも考えずに通り過ぎたに違いないのだ。私は考えないわけにはいかなかった。いったい彼女に執拗にチラチラと言わせたものとはなんだったのだろう。

 かつてマーシャル・マクルーハンは『メディア論』でこう言った。

「どんなメディアでもその内容はつねに別のメディアである」

 なるほど、書きことばの内容は話しことばであり、テレビの内容は新聞である。そして、ご婦人は声というメディアに視線を載せようとしていたのだ。ここで考えなくてはならないのは、声や視線という個別のメディアのことではなく、なぜご婦人は視線から声へメディアの載せかえをしてしまったのかということだ。これは決して他人事ではない。私たちは日ごろ話しことばをLINEに載せ、感情を「いいね」ボタンに置き換えている。それが心地よいこともあるのだ。こうしてメディアへと人々を向かわせるのは、マクルーハンが言うように「メディアはメッセージである」(メディアのコンテンツではなく、メディア自身がメッセージを発している)からではないだろうか。メディアはそれ自身が人に関与するように促し続けている。

 なぜ彼女はあのギリギリまで相手の名前を呼ぶことを忌避したのか。それを解明するためのヒントは、人がメディアに熱中する時、目的と方法の逆転が起きるという事実にあるかもしれない。相手が反応するよりも「チラチラ」言いつづける方が心地よい。なんなら「チラチラ」言いつづけられるなら、振り向いてくれなくってもいい。そんな気持ちはわからないでもない。実際にはご婦人の心の中は窺い知れないが、唯一確かなことは、声で視線を送ろうとする彼女の強い意志があったということである。