可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

本質的には同じものだからこそ

 端から見れば同じものにしか見えないものだが、当の本人は自分にしか見分けの付かない微妙な違いを愛でていることがある。例えば、プロ野球の試合を見ていると

「昨日も同じのをやってたよ」

と家族が言う。野球に興味のない人からすれば、同じ試合にしか見えないかもしれないが、昨日やっていた試合と今日やっている試合はもちろん別のものだ。あるいは買ってきた本を見て、「また同じのを買って」と言われることもある。確かに買ったことのある本を間違えて買ってしまうことがないわけではないが、大抵の場合はそんなことはなく、やはり似てはいるが同じ本ではない。

 よく考えてほしい。昨日やっていた試合と今日やっていた試合がぱっと見ただけで違うなら、むしろ選手も観客も困るのではないか。例えばフィールドで守備に回る人数が違うとか、ホームベースと一塁の距離が違うとか、ボールの大きさが違うとか、そんなことがあったら選手はたまったものではないではないではないか。ラジオの野球中継も、アナウンサーは必死になって昨日との違いを説明するのだが、あまりに違いが多すぎて一通り説明し終える頃には中盤5回くらい終わっているかもしれない。そこで、解説の人が気を利かせて言う。

 「まぁ、昨日とは随分違いますが、4月20日の阪神巨人戦とかなり近いですね」

 するとアナウンサーは感情を表には出さずに、にこやかに

「まぁ、そんなことを言われても、視聴者の方もわけがわからないですね」

と言ってたしなめるのだ。いや、解説者が悪いのではない。悪いのは、ルールだ。ルールが違いすぎるのだ。これでは聴いてる方もさっぱり実感が湧かないだろう。つまり、試合というのは本質的には同じでなくてはならないのだ。

 フィギュアを集めたりする人も同じような状況に置かれたりしているのだろう。周囲から同じものと言われると、本人は

「これは鳥がくわえてるナッツが、ピーナッツで、こっちはカシューナッツなんだよ」

などとむきになって主張してみたりするかもしれない。

 もちろん周囲の人の気持ちがわからないわけではないのだ。私も小さい頃週末に父がテレビでやっているゴルフ中継をそばで観て、また同じものをやっていると思ったものだった。

 ワインだってそうだろう。口に一口含み、

「これは、またぜんぜん違いますねぇ」と言ったからといって、というよりも言ったからこそ、本当には全然違うとは思っていないのだ。ワインと牛乳ほどは違わない。むしろ、ワインと牛乳ほども違うものを口に含んだとして、

「これは、ぜんぜん違いますねえ」と当然のこと言ったら、馬鹿みたいじゃないか。ここで全然違うと言った人が言わんとしているのは、ワインに対して、あらかじめ持っていた枠やステレオタイプを「はみ出してしまいそう」ということだろう。ここに本質的には同じものの違いを愉しむということの神髄がある。

 また、これは同じものなのではないかと感じた時にどのような反応をするかということも、ひとそれぞれに違うものだ。たとえば映画で似たようなシチュエーションがあると、それらを頭の中で重ね合わせることによって深く味わうことができるものだと私は思う。先日、映画『ドストエフスキーと愛に生きる』を渋谷に観に行った。ドキュメンタリー映画の主人公はスヴェトラーナ・ガイヤー。彼女は第2次世界大戦の最中にドイツに占領されたウクライナからドイツに移り住み、そして高齢になってからドストエフスキーの作品のドイツ語新訳に精力的に取り組んでいた。料理や家事を丁寧にやりながら、テキストと向き合われている誠実な、そして芯のある姿がとても印象に残った。ドストエフスキーのドイツ語翻訳がなかったわけではない。だから、本質的には彼女のなそうとしていたことは、かつての翻訳者と同じことであった。しかし、本質的には同じものだからこそ、そこに新しさ、これまでに見出されていなかった視点を与えようとすることができたのではないだろうか。

 私はこの映画に深く感銘を受けたが、映画が始まる前にも考えさせられることがあった。そこは渋谷のミニシアターでそれほど席数はなかった。ソファーのような席に座っていると予告編が始まった。最初に、イラクで人質になった日本人のその後を追ったドキュメンタリー映画の予告があった。その後、福島県の馬のドキュメンタリー映画の予告が続いた。10分くらい映画の予告が続いただろうか。私は随分と予告が長いなと思った。そろそろ本編が始まってもいいころだ。すると、次に流れた予告編で何かが可笑しいと咄嗟に感じたのだ。というのも、またイラクで人質になった人たちの映画の予告が流れ出したのたからだ。

 私は考えた。よっぽどこの映画をこの映画館は推しているのだなと。これはかなりインパクトがあったようで、まばらにしか入っていなかったお客さんたちもすこしそわそわとした。繰り返しの中に私たちは何かしらの主張を見出していた。ぜひ見なくてはいけないのではないか。そんなことを多くの人が感じていたかもしれない。

 そして、次にまた福島の馬のドキュメンタリー映画の予告が流れるに至って、後ろにいた女性の2人組が後ろでこそこそと話し始めた。

「言ってきた方がいいんじゃないの」

「そうよね。ぜったいおかしいよね」

 そして一人の女性がすっと立ち上がり、外へ出て行った。シアター中がその行方を気にしていた。しばらくして女性が戻ると、ようやく本編が始まった。

「やっぱり、言いに行ってよかったわよね」

「うん、そうよね」

あのまま誰も何も言わなかったら、どうなっていたのだろうと考えた。私はそれはそれで得難い経験が出来たのではないかと思うのだ。