可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

年を取ることの謎

 紅白歌合戦石川さゆりが出てきて、「津軽海峡冬景色」を唄いはじめると、なぜか横で父も熱唱し始めた。すぐにやめるかと思ったら一向にやめる気配がない。やめてよと言ってもやめない。母は母で、前にも聞いたような話をくり返したりする。二人ともほんとに年を取ったなあと思ったのだ。しかし、私はふと気付いた。本当にこれは年を取ったからなのだろうか。確かに年は取ったのだ。10年経てば、10歳年を取る。それは自明なことだが、何かが起こることを年を取ったからという形で片付けるのは、何かが起こった時、ある時点から10年経っていたと言っているに過ぎず、その間に因果関係を見出したわけではない。それはただの思考停止だ。にもかかわらず、年を取ったという言明には、そう言ってしまいたくなるような魔力があるのだ。

 冷静になってよく考えると父は昔からそうだったではないか。突然わけのわからないことを始める。年は関係ないのだ。私は毎週のようにどうでもいい話を書いているが、それもまた年を取ったからではない。可笑しなことをする人は、最初から可笑しなことをしているし、していない人はしていないものなのだ。そんな途方に暮れてしまいそうな状況を前に、私たちはむしろ思考停止してみたい心持ちなのかもしれない。だがここで一歩踏みとどまり、年のせいにするのをやめてみる。すると、何ももちろん解決してはいないが、気持ちがずっと楽になるということに気付くのだ。

 そして年のせいにするのではなく、年を取ることの理解を深めなくてはと思うことがあった。朝の通勤電車でのことだ。通勤電車でなんとかつり革の前にたどり着いたと思って視線を下げると、70代くらいのおばあさん3人組が座っていた。早朝から電車に乗っているおばあさんのグループというのは、たいていの場合遠方まで行楽に行く。だから、私はその日はしばらくは席にありつけないなと覚悟をしたのだった。

 3人は顔を寄せ合って、熱心に話していた。そのうちの一人が言った。

「いやぁねぇ、ほんとに最近は年を取ったなあと思うことがあるわよぉ」

 たしかに年は取っているのだ。すると他の二人は尚いっそう顔を寄せ合い、ふんふんと頷いている。

「若い人たちは使う言葉が違うからねぇ」

 やはり他の二人は顔を寄せ合い頷く。そこへさらに言うのだった。

「もうね、若い人たちはね、ボールペンのことをボールペンって言わないのよ」

 私は驚きの余り、声を出しそうになった。ボールペンをなんて言うのだ? ももひきとか、ジーパンとか、レギンスとかならわからなくない。よりによって、ボールペンだ。しかし、彼女はそれ以上そのことについては何も言わなくなった。そして、残りの二人も頷いてばかりで、なんて言うのか聞こうともしなかった。電車が次の駅に近づくと、離れたところにいたおじいさんがやってきて降りるよと声を掛け、私の予想に反して3人組は電車を降りて行った。なんということだ、ボールペンはいったいどうなったんだ。

 私はボールペンの異名を知ることも叶わず、そこに取り残されることになった。私は考えた。私は既に若者ではないために、それが何と呼ばれるかを知らないのではないか。しかし、待てよ。では年老いた彼女はどうしてその異名を知っていたのか。年を取ることの謎は深まるばかりである。誰か若者がボールペンのことを何と言っているのか知っていたら知らせてほしい。