可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

存在しないかまくら

 2週連続の大雪はなんだかんだで結構大変だった。電車は止まるし、会社の構内を雪掻きしなくてはいけなかったし、家から出掛けるのも一苦労だった。天気が回復し外に出るとあちこちで雪掻きをする人の姿が目に入った。駅への道を歩いていると、民家の玄関脇に除雪した雪が積み上げられていた。その一つはよく見てみるとかまくらになっていた。ひょっとしたら、実物のかまくらを見たのははじめてだったかもしれない。

 子供のころ、私はこのかまくらを鎌倉と混同していた。神奈川の鎌倉だ。だから、一面真っ白な銀世界で、赤や紺色のどてらを着た子供が、きゃっきゃと声を上げながら、かまくらに出たり入ったりしている風景の横には、いつも大仏の姿があった。

 今考えれば我ながら馬鹿なんじゃないかとも思うのだが、こういった覚え間違いが私にはいっぱいある。例えば滋賀県草津だ。今では立命館大学龍谷大学など元々京都にあった大学のキャンパスが置かれており、知名度も上がったが、当時はまだそれらはなかった。「草津よいとこ一度はおいで♪」という歌を聴くたびに、滋賀県草津のことだと信じて疑わなかった。私は草津温泉と勘違いしていたのだ。そして、気付いてもよさそうなものだが、近くに温泉地があるわりには、周りに草津温泉に行ったという人に会ったことがないなとも思っていたのだ。

 こうした思い違いが世の中にはある。思い違いをしている人の頭の中には、かまくらと鎌倉とが同居しているような現実には存在しない世界がある。混同しているがゆえに、あるものとあるものとの距離が世間一般とはズレている。なぜだかわからないのだが、かつて私はこのズレに気付き、その存在しない世界が頭の中から消滅する瞬間に非常に強い興味を持っていたのだ。消滅した世界はどこへいってしまうのかと。

 今は少し違う。みな少なからずあらゆるものを混同しており、場合によっては混同したまま暮らしている。もっと言えば、そうしたあらゆるどうでもよいことを混同したものを基盤にして私たちは生活している。例えばまだ会ったこともない人の名字が誰か、かつての友人や彼女と同じである時、なんとなく会う前からその人に似た人を思い浮かべ、好意や抵抗を抱いていたりしている。つまり、混同が少なからず実世界に作用しているのだ。

 そこで再び「かまくら」だ。それは四国とか暖かい地方の話で、旅行から戻って来たある女性が田舎道をキャリーバッグを引きながら歩いていると、前から腰の曲がったおばあさんがやってくる。近所に住む杉江のおばあさんだ。女性が

「鎌倉に行ってきたんです」と言うと、

「そりゃぁ、寒かったじゃろう」といっそう背中を曲げて肩をすくめたまま、手に持っていたみかんを女性にくれたとして、そのみかん1個を手渡そうとしてくれたその優しさがかまくらと鎌倉を混同しているがゆえの世界のズレだとする。世界はどうでもいいズレによって動いているのだ。だとしたら、どうでもいい世界のズレを、どうしてどうでもいいことだと言うことが出来るだろうか?