可笑しなことの見つけ方

日常で見つけた可笑しなことを書いていきます。毎週木曜日20時ごろ更新予定です。

エスプレッソを頼む

 何かあるごとに私はコーヒーショップに立ち寄る。コーヒーが好きというのもあるが、本を読んだり、何か考えを整理したり、書き物をする時にとても便利な場所だからだ。このエッセイもやはりスタバで書いている。
 そして、カウンターで注文する時にごく稀に可笑しな状況になるのだ。いつもいつもというわけではない。だからこちらもそんなことは予想しておらず、不意を突かれて驚くことになる。それは、
「エスプレッソをください」と頼んだ時の、
「量が少なくなっておりますが、よろしいでしょうか?」という店員の問いかけだ。

 まるで量が多い方がいいのではないかと言わんばかりだが、むしろ量が多い方が事態は深刻だ。イメージしてほしい。マグカップになみなみ注がれたエスプレッソがどんと置かれる。私はそれをどうやって飲めばいいのだろうか。マグカップの前で私は茫然と立ち尽くすことになるだろう。やはり、エスプレッソはデミタスカップに少しだけ注がれたのもを砂糖をたっぷり入れて、二口か三口で飲むべきだろう。
 かつてこんなことを問われる商品があっただろうか?
 たとえば、ここはバーだ。バーテンダーに
「ウィスキーをストレートで」と言う。
 すると彼はそっと手を止めて客の方を優しく見つめ、
「量が少なくなっていますが、よろしいでしょうか?」
という。だったら、水割りにすればいいじゃないか。
 食品に限らない。受験で大学に願書を送る。しばらくすると受験票が送られてくる。裏返すと、証明写真の横に受験日時と集合時間が記載されている。そして、その下にゴシック体で目立つように、
「受かりにくくなっておりますが、よろしいでしょうか?」
と書かれているとしたら、余計なお世話以外のなにものでもない。
 あるいは、今は夜、場所は西銀座のチャンスセンターだ。この売り場からは年末ジャンボ宝くじの1等が何本も出ているらしい。夢を買おうとしている人たちが冬の寒い中、行列をなしている。夜の街でチャンスセンターの照明が一際明るく見える。今年こそは当たりそうな気がしてくる。ずいぶんと待ってようやく売場にたどり着いた。
「バラで10枚ください」と私は言う。
 すると、アクリル板の向こう側に座った初老の女性はマイクを通して言うのだ。
「当たりにくくなっていますが、よろしいでしょうか?」
 それを言ってしまってはおしまいである。
 こうして考えていくうちに、エスプレッソの量が少ないことの了解を取るということの異様さに気づかざるを得ないのである。つまり、その了解をとったところで、エスプレッソの魅力はまったく減じることがない。エスプレッソは少ないからこそ、価値があるのだ。
であればなぜ少なくていいかを確認するのか。私にも状況はなんとなく想像がついている。エスプレッソを知らずに頼んだ客が、量が少ないと怒りだしたとかそういうトラブルがあったのだろう。そして、それがマニュアル化されたのではないだろうか。誤解してほしくないのだが、私はこれを批判しているとか、改善せよと言っているのではない。しかし、なんだか不思議な感じがしてくるのだ。そして、望むと望まざるに関わらず、質問されれば答えなければいけない、「大丈夫です」と。
 最近、これはうまいなと思ったのは、注文するとすかさず
「エスプレッソ、お好きなんですね」と言った店員さんだ。こういうふうに訊けば相手がエスプレッソを知っているか大抵わかるだろう。こう訊いてくれると訊かれた方も気分がいいし、会話も弾むというものだ。だからどうしたということなのだが。