にっぽんタクシー無責任時代
代々木でたまたま空いた席に座ったのがよくなかった。ふっとなま暖かい空気を感じて目を開けたら高田馬場だった。乗っていたのは山手線の終電だった。新宿で乗り換えなければいけなかったのだが、酒に酔っていたこともあって寝込んでしまったのだ。
もはや戻る電車もなかったので、急いで改札を抜けタクシー乗り場へと向かった。幸い、タクシーを待っていたのはほんの数名で、あっという間にタクシーに乗ることができた。ほっと胸をなで下ろし、
「三鷹駅の方までお願いします」と言った。
「はい。三鷹駅の方ですね」と運転手は言い、私は返事をして目を瞑った。ところがしばらく走っていくと、運転手が言った。
「お客さん、三鷹の方だと、X通りとY通りと行き方があるんだけど、どっちで行きますか?」
私は困ってしまった。というのも、X通りもY通りも知らない名前で、どうやって選べばいいものかわからなかったからだ。運転手は親切で聞いてくれたのだろうくらいにしか考えていなかった。私は急いでもいなかったし、眠たかったので、
「運転手さんにお任せします」と言った。しかし、運転手は許してはくれない。
「いやあ、どっちか選んでもらえませんか?」と執拗に言ってくる。仕方がないので、少し考えて、
「どっちの方が近いんですか?」と尋ねた。至極まっとうな質問だったと思う。近い方で選ぶ、これ以上の選択があるだろうか? わざわざ遠い方を選ぶ乗客などいないはずだ。
「うーん、そうですねえ。どっちもどっちですねえ」
私は予想外の返答に困惑してしまった。
「じゃあ、運転手さんの運転しやすい方で」と答えると、
「まあ、どっちも同じ感じですね」と、どこまでも私に選ばせようとする。もはや選びようがない。自分の中に判断材料が何もない以上、他力本願で行くより仕方がない。
「どっちを選ぶお客さんが多いんですか?」と聴いた。距離が同じでも、道の良さもが同じでも、それを選ぶ乗客数には偏りがあるだろうと考えた。いや、予感はしたのだ。それは的中した。運転手は言った。
「そうですねえ。どちらも同じくらいですねぇ」
そして唖然とする私に向かって運転手は追い打ちをかけた。
「まあ、これは好みですから」
私はこのとき「好み」の怖さを思い知った。「好み」というのはまるで思いのままにできるサービスを提供しているようであるが、実のところそれを言ってしまえば、意志決定を完全に放棄できるという絶対的な意志決定を可能にしてしまうところにあるのだ。「お好みで、マスタードをつけてお召し上がりください」など街は「好み」や「お好み」で満ち溢れている。私はこの一件以来、好みと言われるたびに怖くなってしまうのだった。
それにしても、ちょっと無責任じゃないか。車から降りる時に「ごくろうさん!」と言えばよかっただろうか。